神之峰に寄り添う谷の風景
信濃の山々より流れ出ずる清流は、伊那の谷を潤し、遠州灘へと注ぐ天竜の河。その雄大な流れに見守られるように、神之峰(かんのみね)の城はございました。小高い山の中腹に築かれた城は、決して大きくはないものの、堅牢にして、城下を見晴るかす様は、まさにこの地を守る要でございました。
城の眼下には、のどかな村里が広がり、田畑は豊かに実り、人々は穏やかに暮らしておりました。春には桜が咲き乱れ、夏には青葉が目に眩しく、秋には紅葉があたりの山を染め、冬には静寂の中に雪が舞う。四季折々の美しい自然に抱かれ、遠く南方に目をやれば、雪を抱いた峰々が、天を衝くように雄々しくそびえ立っておりました。まこと、風光明媚を絵に描いたようなところでございます。
しらねさまが語り始めます
「え?わたくしの名ですか?」
わたくしに名などあったかどうか、とうに忘れてしまいました。いつからこの地に根を張り、誰の手で植えられたものか。今となっては定かではございません。ただ、この安養寺の境内では、いつの頃からか、皆さまが「しらねさま」と呼んでくださるようになりました。わたくしの足元をご覧になれば、ところどころ白っぽい根が、土から顔を覗かせておりますでしょう?「しらね」とは、樹木や草木の地下の茎のこと。そこから、そう呼ばれるようになったと聞いております。
そうそう、ここ安養寺は、藤の花が美しいことでも有名です。毎年若葉が目に眩しい五月ともなれば、下方に見えるあの長い石段の始まりのあたりには、それは見事な藤の花が咲き誇るのでございます。風に揺れる紫の帳(とばり)は、まるで天から降りてきた霞のようで、甘い香りがこの境内まで漂ってまいります。今も地元の方々は、「安養寺の『大藤』」と呼び、その美しさを愛でておられるようです。
そんな藤の季節を幾度となく見送ってきたわたくしですが、長い長い歳月の中でも、綾姫様ほどお美しく、聡明で心優しいお方を、わたくしは他に存じ上げません。
さあ、今宵は、そんな類まれなる姫君の、短くも鮮烈な生涯の物語をお聞かせいたしましょう。しばし、お付き合い願えると幸いです。
光のような綾姫の幼少期
あれは、まだ戦国の険しさが、この伊那谷に影を落とす前の穏やかな時代のこと。
神之峰城にて、花のように美しく珠のように気高い、ひとりの姫がお生まれになりました。その名は「綾姫(あやひめ)様」と申されます。
城主の頼元(よりもと)様にとっては孫姫様で、そのご嫡男である頼康(よりやす)様にとっては、待望の姫君のご誕生。お二方のお顔は喜色に満ち溢れ、城中が祝賀の雰囲気に包まれたと聞いております。
「おお、綾よ。なんという可愛らしさか!ただ、ただ、どうか健やかに、美しく育ってくれよ」
そう言って、赤子の綾姫様を抱き上げた頼康様の目には、うっすらと光るものがあったとか。頼康様の奥方もまた、たいそうお美しい方で、綾姫様の玉のような肌、黒曜石のように輝く大きな瞳は、まさにお母上譲りでございました。
綾姫様には、兄君の頼龍(よりたつ)様と、弟君の頼氏(よりうじ)様という、ご兄弟がおいでになりました。幼名をそれぞれ龍之介(りゅうのすけ)様、鶴丸(つるまる)様と申され、このご兄弟がまた、綾姫さまをそれはそれは大切にされました。
「綾、見てごらん。綺麗な花を摘んできたよ」
兄の龍之介様が、野に咲く撫子の花を綾姫様に差し出される。
「まあ、なんて愛らしいのかしら」
綾姫様は、細くて白い指先を伸ばして花を受け取りながら、輝くような笑顔をお見せになる。
まだ言葉もおぼつかないほどにお小さい弟の鶴丸様が、
「あーーー、うーーーっ」
と、甘え声で綾姫様の着物のたもとにまつわりつかれる。
そんな微笑ましい光景が、神之峰城の日常だったのでございます。その頃はまだ……
綾姫様は、まさに一輪の花のように、清らかに、そして気品高くお育ちになりました。絹糸のように艶やかな黒髪、雪のように白い肌。何よりも、その澄んだ瞳は、見る者の心を惹きつけずにはおきませんでした。お声もまた、鈴を転がすように愛らしく、そのお姿を一目見た者は、誰もがその美しさに心を奪われたと申します。
ただお美しいだけでなく、綾姫様は幼い頃から大変聡明でいらっしゃいました。物覚えも早く、三つになる頃には、侍女が読む絵物語の内容をそらんじて周りを驚かせ、五つになる頃には兄君と共に手習いを始められたのです。その呑み込みの早さには、指南役の者も舌を巻いたほどでございます。

誰からも愛される理由
けれど、綾姫様が皆に愛されたいちばんの理由は、その優しく大らかなお心根でございました。
ある時、庭の隅で、羽を痛めた小鳥を見つけられた綾姫様は、それをそっと手のひらに乗せ、侍女と共に手当てをなさいました。
「小鳥さん、痛いのですね。でも、もう大丈夫ですよ。わたくしが守ってあげますからね」
そう語りかけるお声は、まるで春の陽だまりのように温かく、小鳥も心得たかのように、綾姫様の手の中で静かにしておりました。
城下の民草もまた、この美しく心優しい姫君の誕生を心から喜び、そのご成長を温かく見守ったものです。時折、お傅役(おもりやく)に連れられて城下にお出ましになる綾姫様の姿を見かけると、誰もが自然と頭を下げ、その可憐なお姿に目を細めたのでございます。
しらねさまに、そっと挨拶
わたくし、しらねも、安養寺の境内から、神之峰城の姫君がすくすくとご成長なさるお姿を楽しみに見守っておりました。幼い綾姫様が、時折、お傅役や乳母に手を引かれ、この安養寺にお参りにいらっしゃることもございました。
わたくしの太い幹に、小さな手を伸ばして触れ、「しらねさま、こんにちは」と、愛らしくお声をかけてくださったことも、昨日のことのように思い出されます。

陽光を浴びて輝く若葉のように、綾姫様は、知久家の皆様の愛情を一身に受け、健やかに美しくお育ちになりました。それはまるで、これから訪れるであろう厳しい嵐の前の、ほんのひとときの、けれどもかけがえのない輝きに満ちた日々でございました。
さて、この愛らしい姫君が、どのようにして「姫武将」と呼ばれるほどの道を歩まれることになるのか。そのお話は、また次回にゆずるといたしましょう。