さほど苦労人ではなかった?
「鳴くまで待とうホトトギス」の句でも知られる徳川家康。長い人質生活を耐え忍び、ついに天下統一を成し遂げた「苦労人」というイメージをお持ちの方も多いのではないでしょうか?
しかし、歴史の裏側をのぞいてみると、その人質時代の現実は、私たちが抱くイメージとは少し異なるようです。今回は、戦国時代の常識を覆すかもしれない、家康の人質時代の意外な真実をご紹介します。
必ずしも「人質」=「悲惨な生活」ではなかったらしい
家康は幼少期、今川家の人質として駿府(現在の静岡市)で過ごしました。一般的に「人質」と聞くと、縄で縛られたり、牢に入れられたりといった悲惨な生活を想像しがちです。
ところが、実際の家康の生活はそうではありませんでした。
- 縄や牢とは無縁の生活
- 家臣もそばにおり、外出も自由
驚くことに、家康は比較的自由な生活を送っていたのです。
しかも、今川義元に気に入られていたらしい
さらに驚くべきことに、家康は人質先の当主である今川義元から、かなり気に入られていたようです。義元は家康に対して、
- 家庭教師をつけて学問を施す
- 元の領地(三河)の支配権を認める
- 自身の姪(築山殿)と結婚させる
といった厚遇を与えました。これは、家康を単なる人質としてではなく、将来有望な「今川一門」の人間として扱っていた証拠と言えるでしょう。人質でありながら、英才教育を受け、領地の支配権まで認められていたとは、驚きですね。
なぜ「苦労人」のイメージが定着したのか?
では、なぜ家康の人質時代は「苦労の時代」として語り継がれてきたのでしょうか?
それは、後に家康が今川氏から独立し、天下人となった歴史が関係しています。家康の行動を正当化するために、今川氏を「悪役」として描き、家康を「苦難を乗り越えた英雄」として語るストーリーが、後世になって作られていったと考えられています。
もちろん、故郷を離れての人質生活が、精神的に楽なものでなかったことは想像に難くありません。しかし、一般的に語られるような肉体的な苦痛や屈辱とは少し違う、「恵まれた」側面もあったのです。
歴史上の人物像は、一つの側面だけでは語れません。家康の人質時代の裏側を知ることで、彼の人物像や戦国時代に対する見方が、また少し変わってくるかもしれませんね。