安土城とともに消えた信長の遺品
戦国の覇者・織田信長。天下統一を目前にしながら本能寺で倒れたこの武将は、意外なほど「もの」(いわゆる遺品)を残していません。とくに愛用したとされる甲冑は、本能寺の変後の混乱と、居城・安土城の炎上によって、その多くが失われたと考えられています。

京都の建勲神社に伝わる「紺糸威胴丸具足」など、信長所用と伝えられる品がわずかに残ってはいますが、確実に本人のものと言い切れる甲冑はほとんどありません。
ところが、信長が誰かに「贈った品」となると話は変わります。しかもそれが伝わっているのは、織田家ゆかりの城でも寺でもありません。のちに信長と刃を交えることになる男、上杉謙信のもとへ渡った品なのです。
敵になっても捨てられなかった真紅のマント

天正2年(1574年)3月、信長は越後の謙信へ豪華な贈り物を届けました。一つは狩野永徳が描いた「洛中洛外図屏風」。京の四季と、そこに暮らす2,500人もの人々を描き込んだこの屏風は、現在は国宝に指定され、米沢市上杉博物館に収められています。
そしてもう一つが、南蛮渡来の真紅のビロードのマント——「赤地牡丹唐草文天鵞絨洋套(あかじぼたんからくさもんびろうどようとう)」です。牡丹の唐草を織り出した鮮やかな一領で、当時の日本には存在しなかった生地と色。こちらは重要文化財として、米沢城本丸跡に建つ上杉神社の宝物殿・稽照殿に伝えられています。
なぜ、これほどの品を贈ったのか。当時の信長は将軍・足利義昭を追放し、実質的な天下人となりつつありましたが、反発する勢力は各地に残っていました。越後を押さえる謙信をつなぎとめておくことが、どうしても必要だったのです。
けれど、戦国の同盟は長くは続きません。贈り物からわずか3年後、両者の利害はぶつかり、加賀の地で上杉勢と織田勢が衝突します。世に言う手取川の戦いですが、その規模や実態については諸説あります。
普通に考えれば、敵となった相手からの品など処分されて当然です。ところがこのマントは捨てられなかった。越後から会津、そして米沢へ。上杉家の移封に付き従うように運ばれ、四百数十年を越えて今日まで守られてきました。
現在このマントは修理の最中にあり、数年をかけて手が入れられています。刃を向け合った相手からの贈り物を、なぜ残したのか。憎しみだけでは割り切れない何かが、戦国武将たちの間にはあったのかもしれません。

