若葉萌ゆる神之峰の姫君
綾姫様がお生まれになってから、瞬く間に十余年の歳月が流れました。神之峰の城にも、ここ安養寺の境内にも、何度目かの若葉が目に眩しい季節が巡ってまいりました。わたくしの足元に咲き誇る大藤は、変わらず見事な紫の霞をたなびかせ、風に乗って甘い香りが漂ってまいります。
綾姫様は、今や花の盛りとも申すべき十七の美しき乙女。兄君でいらっしゃる龍之介様は十九歳。物静かで学問をお好みになる落ち着いた若君です。弟君の鶴丸様は十四歳。こちらは何よりも武術がお好きで、日に日に逞しくなられておりました。
父君でいらっしゃる頼康様は、聡明で心優しいお方でしたが、どこかご自身の若き日を龍之介様に重ねてご覧になっているご様子。この戦国の世にあっても、常に書を読み、仏道に心を寄せることを願っておいででした。それゆえ、神之峰城の実質的な采配は、祖父君である頼元様がお摂りになっておられました。
神之峰の城は、切り立った崖の上に築かれた天然の要塞。それに加え、「知久十八か寺」と呼ばれる多くのお寺が、まるで城を守る砦のように麓を取り囲んでおりました。
天竜川の西、飯田や座光寺の方から眺めますれば、その勇壮な姿はひときわ際立って見えます。ところが、ひとたび川を渡り、この知久の里に入りますと、不思議と山懐に隠れてしまい、その麗しいお姿を容易には拝めません。まさに神隠しの城なのでございました。
それほど堅固な城ではございましたが、頼元様は万一の備えに余念がなく、城下の空気もどこか張り詰めたものを感じさせる昨今です。

知的好奇心と武芸への憧れ
さて、綾姫様はといえば、ご成長と共に知的好奇心も旺盛になられました。お母上やお祖母様から、姫君としての嗜みに和歌や琴、茶の湯などをお学びになる一方で、兄君たちと共に、興禅寺の南豊和尚様から禅の教えや儒教についてお聞きになることも楽しみにしておいででした。
和尚様が馬に乗ってお越しになり、兄君たちと綾姫様に深遠な教えを説かれるお姿を、わたくしもこの境内から時折拝見しておりました。綾姫様の熱心に聞き入るお姿、そして時折投げかけられる鋭い問いに、和尚様も感心しきりのご様子。
「姫様は、まことに聡明でいらっしゃいますな。その探求心、いずれ大きな花を咲かせましょうぞ」
南豊和尚様が、頼康様にそうお話しになっているのを聞いたことがございます。
しかし、綾姫様の心をとらえたのは、学問ばかりではございませんでした。
普段は本丸の南にございます二の丸で、侍女たちにかしずかれ、静かに日々をお過ごしの綾姫様。実は、お心の奥底では、兄君や弟君が励んでおられる武芸の世界に、強い憧れを抱いておられたのでございます。
最初は、城の東麓にございます「主天道場」と呼ばれる武芸練磨所や、馬場で行われる兄君たちの稽古を、遠くからそっとご覧になっているだけでございました。
「わたくしも……」
そんな思いが、日ごとに綾姫様の中で大きくなっていったのでございましょう。
姫の決意、開花する才能
本来、姫君の身で、主天道場や馬場に足を踏み入れ、弓を引いたり馬に乗ったりすることなど考えも及ばぬことでございます。頼康様も弥生の方様も、初めのうちは、「とんでもない」とお諌めになりました。
「綾や、そなたは姫なのだ。武芸などは男子のすることぞ」
「お姫様らしく、おしとやかになさい」
けれど、綾姫様の熱意は、ご両親の忠言を上回るものだったようです。学問や姫としての嗜みを疎かにすることなく、その上で真摯に武芸を学びたいと願う綾姫様に、ご両親も次第に根負けなされたのでございます。
「そこまで申すか。ならば、他の稽古を疎かにせぬという約束は守るのだぞ」
頼康様が、ため息まじりにお許しになった時、綾姫様のお顔は桃色に輝いたのでございます。
それからというもの、綾姫様は、まるで水を得た魚のように、兄君や弟君と共に、主天道場や馬場に通われるようになりました。
法心院の源正様や、伴野兵庫之介様といった名うての武芸者が指導にあたる主天道場では、兄君の龍之介様も、武芸好きの鶴丸様も熱心に稽古に励んでおられました。しかしながら、綾姫様の呑み込みの早さと集中力は、どなたにも勝っておられたようでございます。
特に、槍術において、綾姫様は類まれなる才能をお示しになりました。しなやかな体格と、一点に集中する精神力。初めて槍を手にされた時、その重さに一瞬よろめきながらも、すぐに均衡を掴み、鋭い眼差しで的を見据えるお姿は、指導する者たちをも驚かせたほどでございます。
日々の鍛錬を重ねるうちに、綾姫様の槍捌きはめきめきと上達。時には兄君の龍之介様をも凌ぐほどの鋭さを見せることもございました。主天道場には、多くの者たちが放った矢を受け、無数の傷跡を刻んだ大岩がございます。綾姫様の槍は、その岩をも貫かんばかりの気迫を秘めていると言われるほどでした。

胸に秘めたる強き意志
侍女たちの中には、「姫様が汗まみれになるなんて……」と眉をひそめる者もおったようです。けれど、綾姫様ご自身は、そんなことには少しも頓着なさいませんでした。
「わたくしは、ただ美しいだけの飾り物でいたくはありませぬ。この知久の地に生まれ、知久の血を引く者として、お家のために何かお役に立ちたいのです」 そのような強い意志が、綾姫様の美しい瞳の奥に宿っていたのでございます。
そんな綾姫様でしたが、頼康様の「戦を好まず仏道に心を寄せたい」というお気持ちは、敏感に感じ取っておいででした。そして、日増しにきな臭くなる世の動きも。
「姫として生まれながら、なぜ武芸を……」という自問自答がなかったわけではございません。けれど、それ以上に、大切な故郷と家族を守りたいという切なる願いが、綾姫様を突き動かしていたのかもしれませぬ。
こうして、綾姫様は文武両道の才媛として、その美しさだけでなく、秘めたる強さをも磨きながら、神之峰の城でかけがえのない日々を重ねておいででした。
そのお姿を、わたくし、しらねは、時にハラハラと、しかしそれ以上に頼もしく、この安養寺の境内から見守っておりました。
さて、このようにして心身共に成長された綾姫様に、ある日、運命的な出会いが訪れるのでございますが……
そのお話は、また次回にいたしましょう。