淡き恋の予感
綾姫様が、その類まれな才能を文武に渡って開花させていらっしゃった頃、神之峰の城下にも、かすかに戦の匂いが漂い始めるようになっておりました。城主である頼元様も、そして父君の頼康様も、眉間の皺を深くする日が増えたようにお見受けいたします。
そのような日々の中でも、綾姫様は鍛錬を怠ることはございませんでした。特に槍術においては、すでに兄君や弟君をも凌ぐほどの腕前にまで上達されました。
主天道場に響く、綾姫様の気合の籠った声と、槍が風を切る音は、わたくし、しらねの元にも、時折聞こえてまいりました。
ある日のことでございます。いつものように主天道場で汗を流しておられた綾姫様の目に、一人の若武者の姿が留まりました。年の頃は、兄君と同じほどに見えます。その引き締まった体躯と、厳しい修練を積んできたことを物語る精悍な顔つきは、他の若い衆とはどこか違う雰囲気を漂わせておりました。
若武者の名は、小林伸之介(しんのすけ)殿。頼元様の古くからの忠臣、小林帯刀(たてわき)殿のご嫡男でございます。父君譲りの武勇に優れ、特に剣術と馬術においては、若手の中でも抜きん出た存在でございました。
伸之介殿もまた、稽古に励む綾姫様の凛としたお姿に、早くから目を奪われておられたようです。強く、美しく、そのひたむきな眼差しに、知らず知らずのうちに心惹かれていったのでございます。
しかし、相手は知久家の姫君。己の身分をわきまえている伸之介殿は、その想いをおくびにも出しません。綾姫様とは意識して距離を置き、稽古の場でも言葉を交わすことはございませんでした。
綾姫様もまた、伸之介殿の武芸の才、そして時折見せる柔らかな笑顔に、淡いときめきを覚えておいででした。けれど、姫というお立場が、その気持ちを素直に表すことを許しません。
稽古の行き帰り、遠くから伸之介殿のお姿を見かけて胸を高鳴らせながらも、ただそっと視線を送るだけでございました。

御手洗池のほとり
お二人の距離は遅々として縮まらず、わたくしまではがゆい思いを抱き始めた、そんなある日のこと。思いがけない出来事が、ほんのわずかに、その距離を縮めるきっかけとなりました。
弟君の鶴丸様が、槍の稽古の後、ご自身の槍の穂先を覆う革袋を、伸之介殿のものと取り違えてしまわれたのでございます。ところが、鶴丸様はお祖父様からの頼まれごとで急を要しておられたので、
「姉上、申し訳ないのですが、至急こちらの革袋を伸之介殿にお届け願えませんか」
と、綾姫様に託されたのです。
「あの……」
城内の一角、御手洗池(みたらしいけ)のほとりで、綾姫様は伸之介殿にお声をかけられました。本丸から二の丸へ向かう石段の途中、聞こえくる水の音も涼やかな、静かで美しい場所でございます。
池の水面には周囲の木々の緑が映り込み、時折り陽光が眩く反射いたします。けれど、綾姫様が目を伏せながら、心なしか顔を赤らめておられるのは陽の光のせいではなさそうです。
「伸之介殿。鶴丸が、そなたの品と取り違えたよし。これを……」
道場での威勢の良いお声をお出しになる同じ方とは思えぬほど、消え入りそうなお声でした。
「これは、綾姫様。わざわざ痛み入りまする」
練習場からの帰宅途中だった伸之介殿は、驚きと緊張を隠せぬままに、深々と頭を下げられました。
はじめて間近で見る綾姫様のお姿の高貴なこと。いつもお見かけしている稽古着姿でさえも、息をのむほどに美しい姫君でございます。艶やかな打ち掛けを羽織られ、長く垂らした黒髪が幾筋か頬にかかるご様子は、伸之介殿にとっては神々しいばかり。
また、その優しくて可愛らしいお声にも、胸が大きく高鳴るのを抑えることができませんでした。
「いえ……。あ、はい。」
と、しどろもどろになりながら、革袋を受け取る指先が震えないようにするのが精一杯のようでございました。
綾姫様もまた、伸之介殿のお顔を直視できず、その指先に視線を落としてしまわれました。しかし、心の中では、湧き立つような喜びを感じていらっしゃったのです。
ほんの短い間の出来事ではありましたが、お二人の間には、言葉にはならぬ温かな何かが通い合ったようでございました。
その日を境に、稽古の場でお会いすれば、軽く会釈をされるようになったお二人。言葉を交わさずとも、互いへの想いが、静かに、しかし確実に育っていったのでございます。
姫滝の祈り、月下の約束
そして、運命の時は、刻一刻と迫っておりました。甲斐の武田勢が、いよいよ伊那に侵攻するとの報が城内を駆け巡り、神之峰はにわかに緊張の色を深めていたのでございます。
伸之介殿は、その武勇を認められ、頼康様をお守りする近習の精鋭の一人に選ばれました。それは名誉なこととはいえ、同時に、死と隣り合わせの危険な役目でもございました。
出陣を間近に控えた、ある月夜のことでございます。
綾姫様は、父君と神之峰城の安泰。そして、伸之介殿の武運とご無事を祈るため、侍女一人だけを伴い、人目を忍んで城を抜け出されました。
向かわれたのは、玉川の川辺の小さな滝でした。地元では「姫滝(ひめたき)」と呼ばれれております。その昔、綾姫様の叔母君にあたる玉姫様が、戦乱の世の悲運を嘆き、この滝に打たれては涙したという言い伝えの残る場所でございます。
白の浄衣に身を包んだ綾姫様は、冷たい滝の水に打たれながら、一心不乱に祈りを捧げておいででした。
「大神様、父上とお城をお守りください。そして、伸之介殿にもどうかご武運を……」
その時、夜の巡回に出ていた伸之介殿が、偶然にもそのお姿を目にされました。月明かりに照らされながら、滝に打たれる綾姫様の神々しいまでの美しさ。そして、悲痛なまでの祈りの声に、伸之介殿は息をのみ、身動きもできず立ち尽くしてしまわれたのでございます。
綾姫様が、この自分の無事を祈ってくださっている。その事実に、伸之介殿の胸は熱く震えました。
祈りを終え、そっと滝から上がられた綾姫様は、そこに佇む伸之介殿のお姿に気づき、驚きに小さな声を漏らされました。
「あっ、伸之介殿……」
「姫様。このような夜更けに……」
言葉少なでありながらも、お二人の間には、万感の想いが流れておりました。
「どうか、ご無事で戻られますように」
そう言って、綾姫様は震えながら、そっと白い小指を差し出されました。
伸之介殿は、その小さな指を、ご自身の無骨な指で、大切に愛しそうに固く結ばれたのです。
「必ずや、頼康様をお守りし、城へお戻りいただきます。必ず、姫様のお傍へ。必ず……」
それが、お二人の最初で、そして最後となる約束でございました。
どちらからともなく、夜空に浮かぶ月を見上げました。冴え冴えとした月光が、お二人を静かに照らします。戦の前の、ほんの束の間、しかし永遠に心に刻まれるであろう、淡く切ない逢瀬でございました。
この美しい月夜が、やがて血に染まる運命にあることなど、お二人はまだ知る由もございませんでした。
このとき伸之介殿の心には、綾姫様への思慕の念と頼康様への忠義の炎が強く燃え上がっていたのでございます。
「姫様のためにも、この命、惜しむものか!」
その決意は彼の瞳に、より一層の強い光を宿らせていました。
さて、この若き二人の淡い恋、そして神之峰城の運命は、これからいかなる道を辿るのでございましょうか。この先のことを思いますと、わたくし、しらねも胸が締め付けられるようでございます。
