第四話【戦の気配──揺らぐ平穏】

綾姫が軍機に参加
目次

もたらされた運命の書状

綾姫様と伸之介殿が、姫滝のほとりで儚くも固い約束を交わされたあの月夜から、幾日も経たぬ頃。神之峰の城には、いよいよ戦雲が現実のものとして垂れ込めてまいりました。

──天文二十三年七月。

武田信玄が、神之峰の城へ書状を持った使者を送ってまいりました。

書状には「伊那の諸将は、ことごとく我が武田に下った。未だ降らぬは神之峰のみ。一刻も早く恭順の意を示されよ。さすれば現領の安堵を約すが、もしそうでなければ、貴殿の領地ことごとくを打ち滅ぼす所存なり」と、まことに無礼極まる文面がしたためられておりました。

頼元様は書状を読み終えるやいなや、それをビリビリと破り捨て、使者に向かって雷のような一喝を浴びせられたのでございます。

「我が領を、何故そなたらに安堵されねばならぬのか!我ら知久家は遙か昔より、この地を守り抜いてきたのだ。挨拶もなしに他人の土地に土足で踏み込み、あまつさえ降伏せよとは、言語道断!我らは断じて、屈することはない!とっとと帰り、信玄にそう伝えるがよい!」 使者たちは顔面蒼白となり、這うようにして城を去って行ったのでございます。

姫、軍議に加わる

その夜開かれた軍議では、知久家の主だった将が集まり、武田勢をいかに迎え撃つかの議論が交わされました。

その席で、まず議題に上がりましたのは、姫君様方をはじめとする女性衆のことでございました。城が戦場となれば、危険が及ぶは必定。麓の玉川寺や興禅寺などへ、一時避難していただくのが良いのではないか、という意見が出されたのです。

その時でございます。綾姫様が居並ぶ将の前に進み出られ、凛とした口調で申されました。

「お待ちください。わたくしは、この城に残りとうございます。微力ながら、この神之峰を守るお役に立ちたいのです」

一同、驚いて綾姫様に視線を注ぎました。頼康様が案じるように何かを言いかけられましたが、頼元様がそれを制し、静かに綾姫様にお声をかけられました。

「綾よ、そなたの気持ちは嬉しいが、戦に女子の出る幕などないぞ」

「いいえ、お祖父様。わたくしはこの時のために武芸を学んでまいりました。城周りの地理にも明るうございますし、必ずやお役に立てることがあるはずです」

綾姫様の真摯な眼差しに、頼元様も頼康様も、そして居並ぶ将たちも、ただならぬ覚悟を感じ取ったのでございます。しばしの沈黙の後、頼元様が重々しく口を開かれました。

「そなたの意志はわかった。ならば、この城に残り、我らと共に戦うことを許そう。この軍議にも、これより加わるがよい」

「はっ、有り難き幸せに存じます」

こうして、綾姫様は知久家の軍議に、正式に加わることになったのでございます。

軍議の場での綾姫様は、物静かながらも時にハッとするような的を射た意見を述べられ皆を感嘆させました。

「籠城こそが、我らにとって最善の策と存じます。この神之峰は天然の要害。しかし、油断は禁物。特に、東の裾野の『久七洞(きゅうしちぼら)』から続く間道が敵に知られれば、一気に形勢危うくなりかねませぬ。久七洞の警戒を厳にすべきかと……」 その冷静な分析と具体的な指摘に、老練な将たちも思わず唸るばかりでした。

不穏なる影、裏切りの予兆

しかし、軍議の中で一人、気になる言動をする者がおりました。小川城の城主、羽生三左衛門(はにゅう さんざえもん)でございます。羽生殿は、籠城策に真っ向から反対し、城から打って出ての野戦を強硬に主張されたのです。

「武田勢とて、遠征の疲れもあろう。地の利はこちらにある。一戦交えてその鼻をへし折り、この神之峰の武勇を示すべきでござる!」

その言葉は勇ましく聞こえましたが、あまりに積極的すぎる意見と、時折見せる落ち着きのない態度に、頼元様は一抹の不安を覚えておいででした。

「羽生殿の勇気は買うが、野戦は兵力に劣る我らにとっては危険が大きすぎる。籠城を基本とし、機を見て打って出ることも考えようぞ」

頼元様がそう諭されても、羽生殿はどこか納得のいかぬご様子。神妙な顔つきの裏に、何か別の感情を隠しているように見えなくもありません。

綾姫様もまた、羽生殿の瞳の奥に、一瞬よぎる暗い光のようなものを見逃してはおりませんでした。

あぁ、わたくし、しらねも、あの時、羽生殿の心の奥底に潜む、暗くよどんだ影のようなものにもっと早く気づいていれば……と、今でも悔やまれてなりませぬ。

やがて、天文二十三年八月。武田勢はついに天竜川を越え、座光寺河原(ざこうじがわら)にその大軍を布陣いたしました。

知久方は、頼康様を総大将とし、天竜川の対岸、伴野畷(とものなわて)と呼ばれる場所に迎撃の部隊を送り出しました。伸之介殿も、父君の帯刀殿と共に、その一番隊に名を連ねておいででした。

出陣していく父君や伸之介殿たちの姿を見送る綾姫様は、言いようのない不安を胸のうちに抱えておいででした。 あの月の夜。伸之介殿との指切りの約束が、何度も何度も脳裏をよぎりましたが、もう言葉を交わすことは叶いませんでした。このときが、伸之介殿のお姿を見る最後になるとはご存じもなく…。

天竜川の激闘、そして裏切り

天竜川を挟んでの両軍の睨み合いは、数日に及びました。武田軍は、山本勘助の策略か、下流の弁天河原で盛んに篝火を焚き、大軍がそちらに移動したかのように見せかけました。釣られた知久勢の主力がそちらへ移動した隙を突き、山本勘助が率いる三百の精鋭が、上流の座光寺河原から一気に渡河を開始したのです。

知久勢は完全に虚を突かれました。本隊と分断され、伴野畷に残されたのは、頼康様、小林帯刀・伸之介父子、小野子親常(おののこ ちかつね)殿、そして、羽生三左衛門殿ら、わずか七十騎ほどでございました。目の前には、三百を超える武田の精鋭。

しかし、頼康様は少しも怯むことなく、獅子奮迅の戦いぶりでございました。

「狼藉者の武田め!今こそ目に物見せてくれよう!」

その雄叫びと共に、武田勢の中へ斬り込んでいかれました。伸之介殿も父君と共に、頼康様を守り奮戦いたしました。

まさにその時、頼康様にとって、そして知久家にとって、思ってもみなかったことが起こったのでございます。

後方に控えていたはずの羽生三左衛門殿が、おもむろに刀を鞘に納めると、あろうことか武田勢に向かって馬首を巡らせ、降伏の意を示したのです!

「羽生、貴様っ!」 頼康様の怒声が響きましたが時すでに遅く、羽生隊の十数騎もそれに続き、知久勢は一瞬にして大混乱に陥りました。味方の裏切りにより、退路さえも断たれてしまったのです。

月夜の約束、儚く散る

それでも頼康様は、鬼神のごとく戦い続けましたが、ついに武田の兵が放った矢が、その肩を深く射抜きました。

「ぐっ…!」

体勢を崩した頼康様に、武田の猛将、初鹿野存喜(はじかの まさよし)が、槍を構えて襲いかかりました。

「殿ーっ!」

その絶体絶命の瞬間、一陣の風のように割って入ったのは、小林伸之介殿でございました!

「させぬ!」

渾身の力で初鹿野の槍を打ち払い、虚を突かれた初鹿野が怯んだ一瞬、逆にその胴を斬りつけました。しかし、周囲はすでに武田兵に幾重にも取り囲まれておりました。

伸之介殿は、獅子奮迅の戦いぶりでございましたが、すでに満身創痍。二人、三人と敵を斬り伏せましたが、ついに力尽き、その場に崩れ落ちました。薄れゆく意識の中で、最後に脳裏に浮かんだのは、あの月夜の、綾姫様の美しいお姿と、交わした指切りの温もりでございました。

「綾姫…様…」

その言葉は、もう声にはなりませんでした。

まさに、伸之介殿が力尽きたその時。神之峰の城で、父の無事を祈り続けていた綾姫様の左手の小指に、まるで棘が突き刺さったかのような、激しい痛みが走りました。

「きゃっ…!」 思わず小指を押さえ、蒼白になる綾姫様。あの月夜の約束の指が、今、悲しい報せを告げているのだろうか。胸騒ぎが、恐ろしい現実のものとならぬよう、ひたすら祈る綾姫様でした。

濁流に消えた父、頼康

一方、深手を負った頼康様は、馬もろとも天竜川の激流へと転がり落ちていかれました。

「頼康殿ーー!!」

伸之介殿の魂の叫びも、語尾はもはや聞こえませぬ。頼康様は、冷たい水の底へと沈みながら遠のく意識の中で、どこまでも静かで白い光の世界を見ているような気がしていました。やがて深い暗闇の中へ……。

頼康様は、そのまま行方知れずとなられました。あるいは、どこかで生き延びておいでだったのかもしれませぬが、それは、また別のお話でございましょう。

やがて、神之峰の城にも、天竜川での敗戦の報が届きました。父君の行方不明。そして、伸之介殿の討死。

あまりにも大きな悲しみが、綾姫様を打ちのめしました。されど、その美しい瞳の奥には、絶望だけではない、何か強い光が宿り始めていたのを、わたくし、しらねは確かに見て取ったのでございます。 この大きな悲しみを乗り越え、綾姫様は、これからいかなる道を歩まれるのでしょうか。神之峰の運命は、そして綾姫様の戦いは、まだ始まったばかりなのでございます。

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この記事を書いた人

地域の歴史城趾コーディネーター

だれも注目しないようなマイナーな歴史に光を当て、独自の切り口で面白く分かりやすく伝えるのが信条。

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