哀しみの淵からの奮起
──八月十二日、早朝。
天竜川の川面には深い霧が立ち込め、かけがえのない精鋭のほとんどを失ってしまった昨日の激戦が、まるで嘘のように静まり返っておりました。時折り河原を渡るカジカの高く澄んだ鳴き声が、より一層の物哀しさを誘います。
父君・頼康様の行方は杳(よう)として知れず、伸之介殿までもが戦火に散ったという報せは、綾姫様のお心を奈落の底へとつき落としました。
綾姫様の脳裏に浮かぶのは、あの月夜の指切り。誰も知ることのない、ひそやかな約束は、あまりにも脆く、儚く、そして残酷なまでに、風の中へとほどけていったのでございます。

けれども、綾姫様は、悲しみに沈んでばかりのお方ではございませんでした。
日を重ねたある日、蒼白なお顔に、それでも揺るぎない意志の色をたたえて、祖父君・頼元様のもとへと進み出られたのです。
「お祖父様。この綾にも、城を守るお役目をお与えくださいませ」
そのお声の確かさに、頼元様は思わず眉をひそめ、厳しい言葉で諫められました。
「綾よ、何を言い出すのじゃ。女子が戦場に立つなど、とうてい許すわけにはゆかぬ」
「いいえ。わたくしは、父上の無念を、伸之介殿の想いを、この神之峰に殉じた方々の魂を、しかと胸に抱いております。だからこそ、この手で、この身で、城をお守りしたいのです」
綾姫様のまなざしは、涙で潤んではいるものの、驚くほど凛としておりました。
その澄んだ瞳に真のご覚悟を見て取られた頼元様。言葉をなくされたかのように暫し黙しておられましたが、やがて深くため息を吐くと、静かにうなずかれたのでございます。
「うむ、よかろう。だが、無理はするでない。将の命(めい)には必ず従い、己の生命(いのち)を粗末にはせぬこと。それが、このわしとの約定じゃ。決して忘れるまいぞ!」
「はい!」
こうして綾姫様は、名実ともに「姫武将」としての第一歩を踏み出されたのでございました。
光る軍師の才
その頃、羽生三左衛門を味方に引き入れて知久方を崩した武田軍は、三千の兵をもって知久平に布陣。神之峰を三方より包囲しておりました。しかし、下手に動けば、地の利のある知久方が有利と見たのか、それ以上は動こうとしません。
わずか三百五十余騎で迎え撃つ知久方はというと……。天竜川での痛い敗退を肝に銘じ、平地での戦いには敢えて挑まぬ構え。力を温存し、山岳戦と籠城で対抗する策に徹することで、活路を見出そうとしていたのでございます。
数日間は、両軍睨み合いの状況が続きました。武田方は情報収集に努め、知久方は籠城の備えを一層固めておりました。
この膠着状態の中、武田軍の将のお一人、山本勘助は、神之峰城の生命線である水を断つべく、玉川筋に兵を配置しました。知久の城兵が、水を汲みに降りてくるのを阻止しようというのです。
それをいち早く見抜かれたのが──
綾姫様でございました。軍議の席で、静かに、しかし確信に満ちた声で進言なさったのでございます。
「敵は、我らが渇きに苦しむことを狙っておりまする。ならば裏をかき、あたかも水があり余っているように見せかけては如何でしょうか」
綾姫様がご提案されたのは、篝岩の上より、馬の背に白米をかけ流すという奇策。遠目には、水を惜しみなく使い、馬を洗っているように見えるであろうと。
老将たちは驚きました。籠城戦にあって、何よりも貴重な米を馬の背洗いに使うなどとは、と渋るものもおりました。しかし、他に妙案もなく、ついにはこの策が採り入れられたのでございます。
冷たい風が吹きすさぶ早朝、山頂の篝岩にて、白い米粒がひと粒、またひと粒と馬の背に散り、それが日の光にきらめいて、まるで水の雫のように見えたと申します。
その光景を対岸の峠より目にした勘助は、口の端に泡を浮かべながら叫びました。
「なにーっ!?まだ、あれほどの水が残っているというのか……」と、くやしさに地団駄を踏まれたと申します。
綾姫様の知略が、敵将の気力を削いだのでございました。頼元様も、孫娘の軍師としての才覚に、改めて感嘆なされたと聞いております。
「見事じゃ、綾」と、ぽつりと呟かれたその一瞬だけは、精悍な武将のお顔ではなく、孫姫を慈しむ祖父君のお顔をしておられたように思います。
その後、件(くだん)の峠は「ジタジタ峠」と呼ばれ、勘助の怨念のせいで、草木一本さえも生えぬようになったのだとか。

信玄の狂乱
されど、知久方のしたたかな抵抗は、かえって武田信玄の怒りをかき立ててしまったのでございます。
「おのれ、こしゃくな知久め! もはや容赦はせぬ! 徹底的に知久の郷を焼き払い、一人残らず根絶やしにせよ!」
信玄公の雷のような怒声が響き渡ったのを機に、武田軍はまるで堰を切った濁流のように荒れ狂い、その残虐性を剥き出しにしたのでございます。
南原の文永寺、知久家の菩提寺である興禅寺、そして玉川寺……。由緒ある寺社仏閣が、次々と武田勢の放った炎に包まれ、黒煙を天高く上げて燃え落ちていきました。
立ち上る黒煙が、山の峰を越えて神之峰へと流れ込み、城内には騒然とした空気が広がります。報せを受けた綾姫様は、白い頬に長い睫毛の影を落とし、拳を強く握られたまま、言葉少なにこう仰せになりました。
「慈悲は、もはや無用。父上の……伸之介殿の……名もなき民の想い、この綾が晴らしてみせます!」 その横顔には、少女のあどけなさはもはや微塵もなく、決死の覚悟を宿した気迫に包まれているように見えました。

姫武将の覚醒
それからの綾姫様は、文字通り疾風怒濤の戦いぶりでございました。
三石主水殿が率いる隊とともに斬り込んだ際には、綾姫様の神速にして正確無比な槍さばきで、薙ぎ払われて倒れる武田兵が続出したと申します。
ある夜、武田勢が峠にことさら多くの篝火を連ねて、 知久方を精神的に圧迫するという作戦に出てまいったことがございました。
神之峰城にて、その光景を見た虎岩玄蕃殿が、
「あんな小細工で、我々の目をごまかそうとしても無駄なこと。まるで提灯連峰(ちょうちんずらね)じゃ、笑かしてくれるわ」
後の世に「ちょうちんずるね」の名が伝わったのは、こんな由来だったのでございますね。
そんな玄蕃殿の笑い声を受けた綾姫様が、遠く揺れる灯をじっと見据えながら申されました。
「ならば、いっそ火の海に変えて差し上げましょう。今から、夜襲を決行いたします」
ほどなく、虎岩玄蕃殿や佐久間日向殿などとともに敵の兵糧庫近くまで迫り、火を放って敵を大混乱に陥れたのでございます。このときの綾姫様は、夜の闇をつんざく、一陣の疾風のように見えました。
綾姫様の勇猛果敢なお姿は、知久の兵たちを大いに鼓舞したのは言うまでもありません。同時に武田方では、「神之峰には、恐ろしく手強い姫武将がいる」という噂が瞬く間に広まったようでございます。
しかし、綾姫様ご自身は、決して戦に酔いしれることなく、常に冷静沈着でいらっしゃいました。味方の損害を最小限に抑え、的確な指示を出し、時には負傷した兵を自ら手当てすることもあったと聞いております。
その優しさと強さを兼ね備えたお姿に、知久の兵たちは心からの敬愛と忠誠を誓ったのでございます。
忍び寄る終焉の足音
武田軍の猛攻は、日増しに激しさを加えておりました。しかし、綾姫様のご活躍と、城兵たちの決死の抵抗により、神之峰城は、いまだ武田の大軍を寄せ付けてはおりませんでした。
されど、兵糧は確実に減り、城を守る兵たちの顔にも疲れの色がにじみ始めております。この安養寺の境内からも燃え盛る炎が見え、昼夜を問わず響き渡る鬨の声が届いておりました。
わたくし、しらねは、静かに、ただ静かに、綾姫様の無事と神之峰の命運を祈り続けるよりほかございませんでした。