第六話【秘められた道、死守する姫君】

小川の水に癒やされる綾姫
目次

迫り来る運命の刻

膠着状態が続いて、もう十数日になりましょうか。神之峰城は険しい山城という地の利によって、武田の大軍を寄せ付けず何とか持ちこたえておりました。しかし、永遠に守りきれるわけもございません。

「久七洞(きゅうしちぼら)」──それは城へと通じる秘密の間道。その存在が敵に露見すれば、城は一気に陥落するでしょう。その時が、刻一刻と近づいていることを、城中の者たちは肌で感じておりました。

頼元様は、頼龍様、綾姫様、頼氏様の三兄弟をお呼びになり、こう命じられました。

「久七洞の警備を強化せねばならぬ。敵方の偵察がどこまで進んでいるか、麓まで降りて確かめてまいれ」

三人は、それぞれ武装を整えると、険しい山道を慎重に下っていかれました。

よく見れば、頼龍様は連戦の深手で、わずかに片足をひきずっておられます。癒える間もなく、歩くのも難儀なご様子。それでも、兄君としての威厳を保つため、黙して痛みに耐えておられました。

姫の油断と静寂の破れ

山道の途中、清らかな湧き水を見つけられた綾姫様は、兄君や弟君に「先に行ってくださいませ」と微笑まれ、一人その場に留まられました。

「ほんのひとときだけ……」

そう呟かれると、甲冑の籠手を外し、白い指先を冷たい清水に浸されました。

そっと目を閉じると、せせらぎの音、樹々を渡る風のざわめき、鳥たちのさえずり……。戦に明け暮れた日々で張り詰めた心が、ゆっくりと溶けてゆくようでございました。

「動くな!」──突如、静寂を裂く声。

ハッと目を開かれた綾姫様の前には、十数名の武田兵が立ちはだかっておりました。

「し、しまった……」 内心の動揺を抑えつつ、綾姫様は気丈に立ち上がり、太刀の柄に手をかけられました。されど、敵兵の数は十人余り。たった一人では、敵うはずもございません。

綾姫一世一代の芝居

その時、綾姫様の脳裏に浮かんでいたのは、さほど遠くない場所にいる兄君と弟君に、敵から逃れる隙を与えること。そして、「久七洞」の存在を敵に知られぬこと。ただ、それのみに集中し、綾姫様は覚悟を決められました。

「……私なんぞを捕らえたところで、何になりましょう」

「貴様は、知久の姫であろう」

「姫?」

綾姫様は、わざと高らかに笑われました。

「私が姫ですと?笑止千万。私はただの腰元でございます」

「嘘を申すな!その装束、その太刀、どう見ても武将の娘ではないか」

「これらは皆、姫様からお借りしたもの。私は姫様の身代わりとして、城から抜け出てまいったのです」

敵兵たちは顔を見合わせました。

「身代わり……だ……とな」

「さようです。真の姫は、もうとうに城から脱出されております。私は、時を稼ぐための囮にすぎません」

綾姫様の演技は、それは見事でございました。敵兵たちは顔を見合わせ、戸惑いながらも、姫の話を半ば信じ始めた様子。

「では、真の姫はどこへ向かった」

「それを申すとでも思われますか。腰元とはいえ、私とて知久家に仕える身。主君の秘密を明かすような真似は、断じていたしませぬ」

激しい口調で言い放つと、綾姫様はさらに一芝居打たれます。

「頼龍様、頼氏様、どうかこの場を離れてくださいませ──!」

と、あらん限りの声で叫びながら、ご兄弟君が潜むあたりとは真逆の方向へと駆け出されたのでございます。

鬼の形相で追いすがる武田の兵に、ほどなく姫は捕まってしまいました。されど、兄君や弟君、そして久七洞の入り口から、武田の兵たちを遠ざけることには成功したのでございます。

敵兵に囲まれる綾姫

慟哭の神之峰城

綾姫様の機転によって、頼龍様と頼氏様は無事に城へとご帰還なさいました。しかし、当の綾姫様が捕縛され、武田の陣へ連れて行かれたという事実に、城中は深い悲嘆にくれました。

「綾……。すまぬ」

頼元様は、深く頭を垂れたまま、固く握りしめた拳を膝の上でブルブルと震わせておられました。愛してやまぬ孫娘の犠牲を思うと、胸も張り裂けんばかりだったことでしょう。

頼龍様もまた、妹君を守れなかった自責の念に歯噛みし、何度も拳を床に打ちつけておられました。

幼き頃より、綾姫様と仲睦まじかった頼氏様の嘆きは、ひとしおでございました。

「姉君…なぜ…」

魂を抉るような頼氏様の慟哭が、城の奥深くまで響き渡り、人々の悲しみを一層募らせたのでございます。

偽りの医師

しかし、運命とは皮肉なものでございます。

綾姫様が命を賭して守り抜かれた「久七洞」の秘密が、思わぬところから漏れてしまったのでございます。

神之峰の山裾には、わずかばかりの民家が寄り添うように建ち並ぶ静かな集落がありました。その中の一軒に、病に伏す老翁と、その世話をする老妻がひっそりと暮らしていました。

ある日、老妻が川岸で洗濯をしていると、一人の大柄な山伏風の男が声をかけてまいりました。

「もし……ちょっとお尋ねしたいのだが……」

老妻が怯えた様子でいると、男は意外なほど柔和な笑顔で、こう申します。

「私は医師(くすし)でございます。頼元様に頼まれていた薬を届けに参りました。ところが来てみると、どこもかしこも武者に取り囲まれて、城へ近づくことさえできず、ほとほと困っております」

「医師様…ですか……。知久の殿様にお薬を……」

「さよう。この薬を一刻も早く頼元様にお届けせねばと、気が気ではござらん。城へ向かうための、何か良い手立てをご存じないか」

医師と聞いて安心した老妻は、疑うことなく答えました。

「ここから少し上流の東の麓に、『久七洞』という古びた大きな祠がございますで。そこからなら、たやすく上へ行けるだに」

この大男は、敵の山本勘助が送り込んだ武田の忍びでございました。男は、老妻の言葉を聞くやいなや、礼もそこそこに疾風のように立ち去ったのでございます。

ようやくことの重大さに気づいた老妻は、後悔と恐怖で身をよじり、泣きながら川原にへたり込んでしまいました。

大鹿の老婆

闇にうごめくもの

それから、わずか半刻ほどのちの武田陣営では……。

医師に化けた忍びの報告を受けた山本勘助が、剛力自慢の兵を選り抜き、密かに久七洞へと向かわせたのでございます。

武田の兵たちが久七洞の入り口へと辿り着いた頃には、すっかり日が沈んでおりました。兵たちは、うっそうと茂る草木を掻き分け、洞の前の大岩を押し退けて、いつでも突入できる備えを着々と進めたのでございます。

一方その頃、綾姫を失った愁いに沈んだ神之峰城では、よもや麓の闇中で怪しくうごめく者がいることをまだ誰も気づいておりませんでした。

されど、運命の歯車は、もはや誰にも止めることのできぬ速さで回り始めていたのでございます。

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この記事を書いた人

地域の歴史城趾コーディネーター

だれも注目しないようなマイナーな歴史に光を当て、独自の切り口で面白く分かりやすく伝えるのが信条。

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