かつて戦国の海を席巻し、織田信長や豊臣秀吉といった天下人に重用された九鬼水軍。その輝かしい歴史の裏には、時代の大きなうねりに翻弄された一族のドラマがありました。
今回は、知られざる九鬼水軍の「その後」の物語を紐解いていきましょう。
戦国の海を制した九鬼水軍と当主・九鬼嘉隆
「海賊大名」とも称された九鬼嘉隆(くきよしたか)率いる九鬼水軍は、伊勢志摩を拠点に強大な海上戦力としてその名を轟かせました。
織田信長の時代には、石山合戦で毛利水軍を破る大功を立て、その名を不動のものとします。信長からはその功績を称えられ、志摩国の支配を認められました。
続く豊臣秀吉の時代にも、九州征伐や小田原征伐、そして朝鮮出兵など、数々の戦いで水軍の中核として活躍し、嘉隆は志摩鳥羽3万5千石の大名へと上り詰めたのです。巨大な鉄甲船を建造し、最新の戦術を駆使した九鬼水軍は、まさに戦国最強の水軍と呼ぶにふさわしい存在でした。
運命の関ヶ原~引き裂かれた父子の絆~
しかし、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、九鬼家は大きな決断を迫られます。
当主であった九鬼嘉隆は石田三成ら西軍に付きます。一方、嫡男の守隆(もりたか)は徳川家康率いる東軍に与するという、父子で敵味方に分かれるという悲劇的な選択をしました。これには、豊臣恩顧の嘉隆と、新たな時代を見据えた守隆の考え方の違いがあったとも言われています。
ご存じのとおり、戦いは東軍の勝利に終わりました。西軍に与した嘉隆は追い詰められます。守隆は父の助命を家康に嘆願して許されたにも関わらず、父の嘉隆は旧臣の策謀により自刃してしまうのです。武勇に長け、水軍の将として名を馳せた嘉隆の最期は、あまりにも寂しいものでした。
九鬼家の存続と新たな火種~家督相続の嵐~
父・嘉隆の死後、東軍として戦功を挙げた守隆は、家康から所領を安堵され、鳥羽藩5万6千石の大名として九鬼家を存続させました。守隆は藩政の基礎を固め、名君として領民からも慕われたと言われています。
しかし、守隆が亡くなると、九鬼家には再び暗雲が立ち込めるのです。守隆には多くの男子がいましたが、その跡を巡って家督争いが勃発してしまいます。特に有力だったのは、守隆の長男・隆季(たかすえ)と五男・久隆(ひさたか)でした。二人の争いは泥沼化し、幕府の裁定に委ねられることになります。
水軍の終焉と二つの藩への道~海の民、内陸へ~
長い審議の末、幕府は九鬼家の所領を分割するという裁定を下しました。隆季には丹波国綾部(現在の京都府綾部市)2万石、久隆には摂津国三田(さんだ)(現在の兵庫県三田市)3万6千石が与えられ、ここに九鬼家は二つの藩に分裂することとなったのです。
この決定は、九鬼水軍にとって決定的な転換点となりました。かつて広大な海を舞台に活躍した海の民は、その拠点を内陸へと移さざるを得なくなったのです。綾部も三田も海には面しておらず、水軍としての九鬼家の歴史は、ここに事実上の終焉を迎えることとなりました。
戦国最強と謳われた水軍が、陸の大名として生きる道を歩むことになったのは、歴史の皮肉と言えるかもしれません。
内陸に受け継がれた海の魂~三田藩のささやかな誇り~
水軍としての活躍の場を失った九鬼家ですが、その魂までが消え去ったわけではなかったようです。特に、摂津三田藩主となった久隆は、かつての水軍の誇りを忘れていませんでした。
三田藩では、城の前に大きな池(千丈寺池の前身とも言われる)を築き、そこで藩士たちに船の操船訓練をさせたという逸話が残っています。これは、かつて海で勇名を馳せた九鬼水軍の伝統を絶やさず、その武勇と精神を後世に伝えようとした久隆の強い意志の表れだったのでしょう。
内陸の地にあっても、彼らは海の民としての矜持を失わず、ささやかながらもその伝統を守り続けたのです。この行事は、藩の重要な伝統行事として受け継がれていったと言われています。

かつての海の覇者~その栄光と悲劇~
九鬼水軍の物語は、栄光と悲劇、そして時代の変化に翻弄されながらも、誇りを失わなかった人々の姿を私たちに教えてくれます。
海の覇者から内陸の大名へ。その大きな変化の中で、彼らがどのように生き、何を後世に残そうとしたのか。歴史の表舞台だけでなく、こうした「その後」の物語にこそ、人間の逞しさや深い思いが込められているのかもしれません。