有岡城の悲劇~身も凍るような信長の非情な報復│荒木村重はなぜ信長を裏切ったのか?【中編】

荒木村重の逃亡劇

※この記事は、戦国武将・荒木 村重の人物伝として3連続で構成しています。当記事は、その「中編」です。

目次

はじめに

裏切り者の烙印、その代償とは

【前編】では、一介の家臣から織田信長の信頼を得て摂津 37 万石の領主へと成り上がった荒木村重が、突如として信長に反旗を翻し、有岡城に籠城(ろうじょう)するまでをお伝えしました。

信長にとって「青天の霹靂(せいてんのへきれき)」であったこの裏切りは、村重自身、そして彼の家族や家臣たちに、あまりにも大きな代償をもたらすことになります。

今回は【中編】として、村重の謀反に対する信長の反応。有岡城を巡る攻防。そして村重が「卑怯者」と呼ばれるようになった衝撃的な行動と、その悲惨な結末に焦点を当てていきます。

説得の任務を受けた明智光秀、そして悲運の黒田官兵衛

村重謀反の報を受けた信長は、すぐさま武力で鎮圧するのではなく、まず説得を試みます。それほどまでに、村重の能力を買い、その裏切りを信じたくなかったのかもしれません。

最初に説得の使者として有岡城へ派遣されたのは、明智光秀でした。光秀の娘・倫子(りんこ)が村重の嫡男・村次の正室であったことから、縁戚関係にある光秀に白羽の矢が立ったのです。しかし、光秀の懸命な説得もむなしく、村重は首を縦に振りませんでした。

次に信長が送り込んだのは、稀代の軍師として名高い黒田官兵衛(くろだかんべえ)。官兵衛は村重と旧知の間柄だったので、その関係性に信長も最後の望みを託したのでしょう。

しかし、村重は官兵衛の説得にも耳を貸しませんでした。

それどころか、村重は驚くべき行動に出ます。なんと、説得に訪れた官兵衛を捕らえ、有岡城内の土牢に一 年以上も幽閉(ゆうへい)してしまうのです。使者を幽閉するという行為は、当時の慣習からしても異常なこと。この一件は、村重の頑なな決意と、追い詰められた精神状態を物語っているのかもしれません。

この官兵衛幽閉は、思わぬ余波を生みます。説得に行ったまま戻らない官兵衛に対し、信長は「官兵衛も村重に寝返ったのではないか」と疑念を抱き、官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の処刑を羽柴秀吉に命じます。

罪のない幼子を殺すことに秀吉はためらいますが、その窮地を救ったのが、官兵衛の盟友であった軍師・竹中半兵衛でした。半兵衛は機転を利かせて松寿丸を自らの居城にかくまい、その命を救ったのです。この心温まるエピソードは、戦国の厳しい現実の中に咲いた一輪の花のようにも感じられます。(結果的に、長政は処刑されず、半兵衛も罰せられることはありませんでした。)

決裂、そして総攻撃へ!

有岡城、絶望の籠城戦

度重なる説得も失敗に終わり、さらには官兵衛まで幽閉されたとあっては、さすがの信長も堪忍袋の緒が切れます。「もはや説得は不可能」と悟った信長は、ついに村重討伐へと舵を切りました。

信長はまず、村重配下の武将たちや、村重に味方する可能性のあった勢力に対して調略を開始。じわじわと村重の力を削いでいきます。そして、有岡城内の兵糧が尽き始めた頃合いを見計らい、信長自らが率いる大軍勢で城を包囲し、総攻撃を開始しました。

有岡城は堅城(けんじょう)であり、村重軍も必死の抵抗を見せますが、織田の大軍の前に劣勢は明らか。落城は時間の問題となっていきました。

織田軍勢に包囲された有岡城

「卑怯者」のそしりを受けても我が命が大事

妻子を見捨てて逃亡を選ぶ村重

追い詰められた有岡城。城主である村重は、ここで常軌を逸した行動に出ます。なんと、城に残る妻子や家臣たちを置き去りにし、自分ひとりで城を脱出、逃亡を図ったのです。

この時、村重が城から持ち出したのは、「兵庫つぼ」という名物の茶器と、愛人の「阿古」という女性だけだったとも伝えられています。自らの命、そして愛人や茶器は守ろうとした一方で、城に残された妻子の命は二の次だったのでしょうか。この行動は、後世「卑怯者」「人でなし」といった厳しい評価を受ける最大の要因となりました。

城主に見捨てられた有岡城でしたが、残された家臣たちはその後も約 1 ヶ月間、果敢に戦い続けました。しかし、力及ばず、ついに落城の日を迎えます。

非情なる信長の報復

尼崎での惨劇、七松の地に響き渡る悲鳴

有岡城を脱出した村重は、息子の村次が守る尼崎城へと逃げ込みました。これに対し、信長は村重に最後の交渉を持ちかけます。「尼崎城と花隈城を明け渡せば、有岡城に残されたお前の妻子らの命は助けてやろう」と。

しかし、村重はこの申し出に応じませんでした。信長が過去に、降伏した相手を皆殺しにした事例を見知っていたので、信長の言葉を信用できなかったのかもしれません。あるいは、もはや自身の保身しか考えられなくなっていたのでしょうか。

この村重の対応に、信長の怒りは頂点に達します。「ここまで譲歩しているにも関わらず、この仕打ち!もはや許さん!」と、信長は捕らえていた村重の妻子、そして家臣たちの一族に対する徹底的かつ残虐な処刑を命じたのです。

尼崎城のすぐ近くにあった七松という刑場では、荒木一族の女子供女 122 人が磔(はりつけ)に

され、次々と鉄砲や長柄(槍)で殺害されました。また、家臣とその家族 500 人以上は、数軒の家屋に押し込められ、生きたまま焼き殺されたといいます。処刑された者の総数は、数百名とも六百数十名とも言われ、その悲鳴が周囲に響き渡り、近隣の人々は耳を塞いで震え上がったと伝えられています。

信長にとって、目をかけていた村重の裏切りは、愛情が深かった分だけ憎しみも強烈なものとなったのでしょう。「可愛さ余って憎さ百倍」という言葉が、これほど当てはまる状況もありません。

すべてを失った村重

逃亡の果てに待つものは…

七松での大虐殺の後も、村重は花隈城へと逃れてなおも抵抗を試みますが、信長の猛攻に耐えきれませんでした。ついに花隈城も落城。村重は、自らが築き上げたすべての城と領地、そして多くの人々の命を失い、逃亡者となったのです。

天下人・信長を敵に回し、壮絶な逃亡劇の末、妻子や家臣を失った荒木村重。彼のこの後の人生は、一体どのようなものだったのでしょうか。そして、彼が信長を裏切った本当の理由とは何だったのか。

次回【後編】では、村重が謀反に至ったとされる様々な理由、意外な後半生と最期について探ります。さらに、悲劇のヒロインとして語り継がれる妻「だし」のエピソードに迫りますので、引き続きご覧ください。

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この記事を書いた人

地域の歴史城趾コーディネーター

だれも注目しないようなマイナーな歴史に光を当て、独自の切り口で面白く分かりやすく伝えるのが信条。

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