※この記事は、戦国武将・荒木 村重の人物伝として3連続で構成しています。当記事は、その「後編」です。
はじめに~逃亡者の後半生、そして残された謎
【中編】では、織田信長に反旗を翻した荒木村重が、居城・有岡城で妻子や家臣を見捨てて逃亡し、その結果、多くの命が失われるという悲劇的な結末を迎えました。信長の激しい怒りは、村重の一族だけでなく、多くの家臣たちにも及び、凄惨な処刑が行われたのです。
すべてを失い、逃亡者となった荒木村重。今回は【後編】として、彼がなぜ信長を裏切ったのか、その謀反の理由として語られる諸説、そして意外な後半生と最期について迫ります。また、悲劇の最期を遂げた妻「だし」についても、その気高い生き様を少しだけご紹介します。
村重謀反のミステリー、その真相は諸説入り乱れる
荒木村重がなぜ、あれほどの厚遇を受けていた織田信長を裏切ったのか。その明確な理由は、実は歴史の謎とされており、現代でも様々な説が議論されています。
1.信長の屈辱的な仕打ち?「まんじゅう事件」説
最も有名で、ドラマチックな説の一つが、村重が信長に初めて謁見した際の「まんじゅう事件」です。
信長は、平伏する村重に対し、刀の先にまんじゅうを突き刺し、「さあ、食べてみよ」と顔の前に突き出したと言われています。村重は臆することなく、そのまんじゅうにかぶりついたとされますが、この時の屈辱が心の奥底に残り、いつか信長に一矢報いたいという思いを抱き続けたのではないか、という説です。
一方で、この時の村重の豪胆な態度を見た信長が「日本一の器量人」と称賛し、自らの脇差を与えたという全く逆の逸話も存在するため、真相は定かではありません。しかし、このエピソードは、信長の常人離れした行動と、それに対する村重の複雑な感情を象徴しているようにも思えます。
2.黒田官兵衛との共謀説、背後にいたのは秀吉か?
村重の後半生が、豊臣秀吉の「御伽衆(おとぎしゅう)」、つまり話し相手や相談役としての立場を得ていたことから浮上する説もあります。
それは、村重の謀反は、実は黒田官兵衛と共謀した信長暗殺計画の一環だったのではないか、というものです。そして、その計画の背後には、信長亡き後の天下を狙う羽柴秀吉(豊臣秀吉)の影があったのではないか、と。
だからこそ、謀反人であるはずの村重を、秀吉は後に手厚く遇したのではないか、という深読みも成り立ちます。これはあくまで推測の域を出ませんが、戦国の権力闘争の複雑さを感じさせる説です。
3.石山本願寺との関係、あるいは追い詰められた末の暴発?
その他にも、もともと石山本願寺と親しかった村重が、信長と本願寺の間で板挟みになり
、苦慮の末に謀反に踏み切ったとする説や、信長のあまりに過酷な要求や猜疑心に追い詰められ、自衛のために反旗を翻したという説など、様々な要因が考えられています。
結局のところ、複数の要因が複雑に絡み合った結果なのかもしれません。ただ一つ言えるのは、彼の決断が、あまりにも多くの悲劇を生んだということです。
逃亡、そして茶人「道薫」としての再起
有岡城、尼崎城、花隈城と、次々に拠点を失った村重は、最終的に毛利氏を頼って備後国
(現在の広島県東部)の尾道へと落ち延びたとされています。まさに、裸一貫での逃亡生活だったことでしょう。
しかし、歴史の歯車は回り続けます。1582 年、村重を追放した張本人である織田信長が
、「本能寺の変」で明智光秀に討たれるという衝撃的な事件が発生。その後、豊臣秀吉が天下人としての地位を確立すると、驚くべきことに、荒木村重は再び歴史の表舞台に姿を現します。
秀吉の治世下で、村重は頭を丸めて出家し、「道薫(どうくん)」と号し、茶人として生きる道を選びました。かつての野心に燃える武将の面影はなく、静かに茶の湯と向き合う日々。そして、千利休の高弟七人衆を指す「利休七哲」の一人に数えられるほどの茶人として、その名を知られるようになります。
村重は、52 歳でその生涯を閉じたと記録されていますが、前半生の激しさとは対照的に静かな幕引きでした。なぜ秀吉が、かつて主君信長を裏切った村重を許し、そばに置いたのか。これもまた、歴史の興味深い謎の一つです。

悲劇の妻「だし」
最後まで誇り高く散った美貌の女性
荒木村重の妻「だし」は美女として知られ、「信長公記(しんちょうこうき)」にもその記述が残るほどの人物でした。その美貌は「今楊貴妃(いまようきひ)」とまで称えられたほどで、まさに傾国の美女だったと伝わっています。
彼女の最期は、あまりにも悲劇的でありながら、同時に武士の妻としての誇りに満ちたものでした。
信長の命により、京の町を引き回された後、六条河原(ろくじょうがわら)で処刑される際、だしは少しも取り乱すことなく、凛とした態度を崩さなかったといいます。大八車から降ろされると、静かに帯を締め直し、髪を高々と結い上げ、小袖の襟元を整えてから、尋常(じんじょう)に首を差し出したのだとか。
夫の裏切りによって非業の死を遂げることになった無念は計り知れませんが、その最期まで武家の女性としての気高さを失わなかった姿は、多くの人々の胸を打ちました。
だしが遺した辞世の句(じせいのく)の一つに、
── 消ゆる身は惜しむべきにもなきものを母の思いぞ障りとはなる──
という歌があります。我が身が消えゆくことは少しも惜しくはないけれど、残していく幼い子どもたちを思うと心残りだ、という意味です。母としての深い愛情が感じられ、一層の哀れを誘います。

荒木村重が残した教訓
荒木村重の生涯は、野心、成功、裏切り、逃亡、そして意外な再起と、まさに波乱に満ちたものでした。彼の行動は、時に理解しがたく、その結果として多くの悲劇も生み出しました。しかし、その生き様は、戦国という時代の複雑さ、そして人間の弱さや強かさを私たちに教えてくれます。
「なぜ信長を裏切ったのか?」その明確な答えは歴史の闇の中ですが、荒木村重の逸話は
、一つの選択がどれほど大きな影響を与えるのか、そして時代の波に翻弄されながらも生き抜こうとした一人の人間の姿を、鮮烈に描き出していると言えるでしょう。