数々の伝説に彩られた「妖刀 村正」という刀をご存知でしょうか。
─主君に仇なす
─血を好む
そんな不吉なイメージで語られる村正。特に徳川家にとっては忌むべき存在とされ、数々の悲劇と結びつけられてきました。
しかし、本当のところはどうだったのでしょうか?この記事では、妖刀村正と徳川家の因縁、そして意外な事実を紐解いていきます。
妖刀村正が「徳川に祟る」と言われる理由
前述の通り、「妖刀 村正」と聞くと、多くの人が不吉なイメージを思い浮かべるのではないでしょうか。村正は真田信繁(幸村)や幕末の西郷隆盛など、時の権力者、特に徳川家を倒そうとした者たちが好んで愛用したと伝えられている刀剣です。
このことから、「村正は徳川に祟る妖刀」という伝説が生まれ、広く知られるようになりました。持ち主に災いをもたらす、血に飢えた刀として、物語や創作の世界でも格好の題材とされてきたのです。
それにしてもなぜ、村正だけがこれほどまでに「妖刀」として恐れられ、徳川家と結びつけられるようになったのでしょうか。その背景には、徳川家を襲った数々の悲劇が深く関わっています。
徳川家を襲った村正にまつわる悲劇の連鎖
ここで、徳川家に起きた村正関連の不幸な出来事を洗い出してみましょう。
家康の祖父である松平清康は、家臣の謀反によって命を落としました。この時、清康を斬った刀が村正であったと伝えられています。
1545年に家臣に殺害された際、使われた脇差も村正でした。
家康の長男である信康は、武田家との内通疑惑などから織田信長に謀反を疑われ、家康の命により切腹させられました。この際、信康の介錯に使われた刀もまた村正だったと言われています。
家康自身も若い頃、戦場で村正の槍によって指を負傷したという逸話が残っています。
上記の通り、不吉な出来事が重なったことで、徳川家にとって村正は縁起の悪い刀、まさに「祟りをもたらす妖刀」というイメージが定着していったのです。
村正は本当に呪われた刀だったのか ─ その背景を探る
では、村正は本当に呪われた刀だったのでしょうか?
村正は、室町時代から約100年間にわたり、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で三代にわたって作刀された刀工の名であり、その「作品群」を指します。(だから、同じ村正でも、太刀もあれば、打刀もあれば、槍や脇差しもあるというわけです)初代村正は切れ味の鋭い実践的な刀を作ることで知られ、その作風は二代目、三代目にも受け継がれました。
桑名で作られた村正は、地理的に近い三河国(徳川家の本拠地)や尾張国などで広く流通するようになります。桑名と三河は海上交通の要衝であり、物資の往来が盛んだったので、三河武士にとって村正の刀は比較的手に入りやすかったのです。つまり、徳川家やその家臣たちが村正の刀を所持している率が高かったのは、ごく自然なことでした。
そして、常に死と隣り合わせの戦国時代において、刀傷沙汰や不幸な出来事が起こることは日常茶飯事でした。たまたま、徳川家に起こった不幸な事件に村正の刀が関わっていたことが、後の「妖刀伝説」へと繋がっていったと考えられます。
家康自身は村正をどう思っていたのか、意外な事実と村正のその後
徳川家にとって不吉な刀とされた村正ですが、当の徳川家康自身は、村正をどのように考えていたのでしょうか。
なんと、家康自身は村正を特に嫌ってはおらず、それどころか死ぬまで手元に置いていたというのです。これは、一般的に流布している「家康は村正を忌み嫌い、村正狩りを行った」という話とは大きく異なります。
家康は非常に合理的な人物だったそうです。だから、もしも村正を妖刀だと思っていたら、手元に置くことは考えにくいでしょう。むしろ、優れた武具としての価値を認め、愛用していた可能性の方が高いのです。
家康亡き後の村正
家康が所持していた村正は、彼の死後、尾張徳川家に分与されて現在まで大切に伝えられています。 もし本当に忌むべき妖刀であれば、このように代々受け継がれることはなかったでしょう。徳川美術館には、家康所用の村正の刀が数点所蔵されており、その美しい姿を今に伝えています。