戦国の風雲児として、数々の革新的な政策を打ち出し、天下統一を目前まで近づいた織田信長。
若かりし頃は「大うつけ」などと揶揄された織田信長。その苛烈なイメージや大胆な行動は広く知られていますが、彼の日常生活、特に「食」については意外と知られていないのではないでしょうか。
実は、信長の食生活には、彼のイメージとは少し異なる意外な好みや、当時の時代背景を色濃く反映した特徴がありました。
本記事では、「織田信長の食生活」を深掘りして、意外な嗜好や食のリアルに迫ります。
信長が「濃い味」を好んだ理由
織田信長は「薄味よりも濃い味を好んだ」とされています。これは現代の健康志向とは逆行するように思えますが、当時の食文化や信長の置かれた状況を考えると、何となく思い当たる理由があります。
当時の食文化と「濃い味」の背景
戦国時代は、現代のように調味料が豊富ではなく、当然ながら冷蔵庫もありませんでした。そのため、食材を保存するためには塩や味噌を多く使う必要があり、全体的に濃い味付けが主流だったと考えられます。
信長は常に多忙を極め、各地を転戦し、政治的にも多くの決断を迫られていました。濃い味付けの食事は、少量でも満足感を得やすく、また塩分は疲労回復にも役立つため、彼の活動的な日々を支えるエネルギー源として機能していた可能性があります。
信長が愛した「焼き味噌」
信長が好んだとされる「焼き味噌」は、味噌にネギやシソ、クルミなどを混ぜて焼き上げたもので、ご飯のおかずや酒の肴として食されていました。
味噌自体が保存性の高い発酵食品であり、さらに焼くことで風味が増し、日持ちも良くなります。信長は、この香ばしくて濃厚な味わいの焼き味噌を特に好んだそうです。
織田信長は「甘党」だったという意外な一面
濃い味を好む一方で、信長は「甘党」という意外な一面も持っていました。これは、彼の「新しいもの好き」の性格が関連しているのかもしれません。
南蛮文化の象徴「コンペイトウ」との出会い
信長が甘党だったというエピソードとして有名なのが「コンペイトウ」です。
コンペイトウは、1546年にポルトガルからもたらされた南蛮菓子の一つで、当時は非常に貴重で高価なものでした。宣教師ルイス・フロイスが信長に謁見した際、フラスコに入った金平糖を献上したという記録が『日本史』に残されています。
信長はその珍しい形と甘さに魅了され、非常に喜んだと言われています。このコンペイトウとの出会いは、信長が新しい文化や技術に強い関心を持っていたことを示す証の一つとも言えるでしょう。
信長の好物は「団子」と「お茶漬け」
信長は「団子」を好んで食べていたと言われています。
当時の団子がどのようなものだったか詳細は不明ですが、米粉や穀物の粉を練って丸めたシンプルな甘味だった可能性が高いです。戦の合間や、緊張感の高い日常の中で、こうした素朴な甘味は、信長にとって束の間の安らぎをもたらしたのかもしれませんね。
さらに信長は「お茶漬け」も好物だったようです。特に湯漬け(飯に熱湯をかけ、味噌や漬物を添えて食べるシンプルなもの)を好んだのだとか。そこへ信長の大好きな焼き味噌でも乗せれば、立派な一品になりますね。
番外:戦国武将たちの食生活と健康問題
塩分過多=早死のリスク
戦後期時代は、信長に限らず他の戦国大名も「塩分が高い食べ物」を好んで食べていたと推察されます。これは、現代の栄養学的な観点から見れば過剰摂取であり、高血圧や脳卒中などの生活習慣病のリスクを高める要因となります。
名だたる武将の没年を見てみると、織田信長(享年49)、武田信玄(享年53)、上杉謙信(享年49)など、比較的若くして亡くなった武将も多く、その死因には病気が関わっているケースも少なくありません。一概に塩分の過剰摂取が直接的な死因とは言えないまでも、健康状態に何らかの影響を与えていた可能性は否定できません。
保存食の重要性と塩分の役割
戦国時代において、食料の確保と保存は死活問題でした。特に長期間の籠城戦や遠征では、保存食が勝敗を左右することもあったのです。
塩漬け、味噌漬け、干物などは、まさに生き残るための知恵であり、塩分はそのための重要な手段でした。健康リスクと引き換えに、生き残るための選択を迫られていたとも言えます。