森と伝説が息づく三河と信濃の境─根羽村の信玄終焉伝説と七年祭

七年祭(イメージ)

長野県の最西南端、愛知・岐阜両県との県境に位置する根羽村(ねばむら)。

この地は、その面積の93%を森林が占める「森の村」として知られ、三河と信濃、二つの文化が交錯する独自の歴史と伝承を今に伝えています。

本記事では、根羽村が持つ歴史的背景や語り継がれる伝説。そして現在も続く祭りや林業文化を中心に、その魅力をご紹介します。

目次

根羽村の特徴と豊かな自然

根羽村は、その広大な面積のほとんどが森林で構成されています。

矢作川の源流域に位置し、「根羽スギ」「根羽ヒノキ」といったブランド材の産地としても有名です。村全体で森林組合を形成し、持続可能な森づくりや「木育(もくいく)」活動に積極的に取り組んでいます。

近年では、山地酪農(さんちらくのう)やサステナブルな暮らしの実践など、自然との共生を追求する村づくりが進められています。都会の喧騒から離れ、心安らぐひとときを過ごせる、まさに自然と調和した暮らしが息づく場所です。

月瀬の大杉(イメージ)

三河と信濃のはざまで

根羽村の歴史を紐解くと、元々は現在の愛知県にあたる「三河国」に属していたことがわかります。平安時代後期には高橋新荘の一部として成立し、鎌倉時代には足助氏の支配下、南北朝時代には加茂郡足助荘に属していました。

戦国時代には、阿南町新野の関氏や下條氏の支配を経て、武田信玄の進攻により信濃国に編入。その後、織田・徳川両氏の支配を経て、明治8年(1875年)に月瀬村と合併し、現在の根羽村が誕生しました。

現在も三河地方との婚姻や文化交流が深く、豊田市や西三河地域との人的往来や経済的なつながりが続いています。まさに、三河と信濃の文化が融合した、歴史の舞台なのです。

武田信玄終焉伝説と信玄塚

根羽村最大の歴史的トリビアは、「武田信玄終焉の地」伝説でしょう。戦国時代の武将、武田信玄は三河遠征からの帰路、病に倒れたとされ、『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』には「ねばねの上村で御他界」と記されています。

この伝承に基づき、村内の横畑地区には、信玄を弔う「信玄塚(しんげんづか)」と呼ばれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建立されました。この塔は江戸時代の武田家縁者による建立と伝わり、現在も村人の手によって大切に守られています。

さらに、「横旗(よこはた)」という地名は、信玄の死を悼み、「風林火山」の旗を横にしたことに由来するとも言われており、歴史のロマンを感じさせます。

森林と林業文化

根羽村の林業は、村全体で森を守る「トータル林業」が特徴です。明治時代に全世帯に村有林が分配され、現在もほぼ全世帯が森林組合員となっています。

持続可能な森林経営の国際認証(SGEC認証)も取得し、木育活動や山地酪農など、森と人が共に生きる村づくりを実践。根羽村は、人と自然が共存し、豊かな暮らしを築いている、まさに現代における理想的な姿を体現していると言えるでしょう。

最後に……

三河と信濃の文化が交差し、森と共に生きる知恵と伝統が息づく村、根羽村。武田信玄終焉伝説に秘められた歴史の深さ、7年に一度の熱気あふれる七年祭、そして何よりも豊かな森林が育む文化――。

歴史のロマンと自然の恵みを存分に感じられる根羽村へ、ぜひ一度足を運んでみてください。

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この記事を書いた人

地域の歴史城趾コーディネーター

だれも注目しないようなマイナーな歴史に光を当て、独自の切り口で面白く分かりやすく伝えるのが信条。

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