その昔、お米の代わりに“紙”で年貢を納めていた町がある――そんなトリビアをご存知ですか?
その舞台となったのが、南アルプスと中央アルプスに抱かれた自然豊かな地、長野県飯田市。本記事では、この飯田市が誇る奥深い「紙文化」と、それにまつわる興味深い歴史の数々をご紹介します。
高品質の証!年貢として認められた「飯田和紙」の実力
年貢といえば、一般的にはお米(年貢米)というのが通例です。しかし、飯田地域では、良質な和紙を生産していたことから、江戸時代には幕府や飯田藩によって紙での年貢納入(紙年貢・紙役)が認められていた記録が残っています。これは、飯田で漉かれる和紙が、お米に匹敵するほどの価値と品質だったという何よりの証と言えるでしょう。
歴史書にも残る「紙年貢」の実態
飯田の和紙は、「伊那和紙」や「立石紙(たていしがみ)」といった名称で知られています。その歴史はとても古く、室町時代にまで遡るとも言われているほどです。
江戸時代に入ると、飯田藩は和紙生産を重要な産業として奨励。当時生産されていたのは、障子紙、書院紙、奉書紙など多岐にわたりました。丈夫で良質な飯田の和紙は、いずれの用途でも重用されたようです。
飯田藩の古文書などによると、村々から紙が年貢として上納された旨が確かに記されています。幕府の御用紙や藩の公用紙など、飯田の和紙は多方面で重宝されていたようです。その背景には、コウゾやミツマタといった和紙の原料となる植物が豊富に自生していたことや、清冽な水に恵まれていたことなど、和紙作りに適した自然環境があったことも大きな要因です。
お米に劣らぬ価値を持つ紙
紙が年貢として認められたということは、単に物々交換の対象というだけでなく、経済的な価値がお米と同等、あるいはそれ以上と評価されていたことを意味します。
前述のとおり、当時の紙は様々な用途で使われていました。記録媒体としてだけでなく、建具(障子や襖)、包装、儀礼用など、生活のあらゆる場面で不可欠なものだったのです。
特に飯田産の和紙のように高品質なものはとても貴重で、藩の財政を支える重要な特産品の一つだったのは間違いありません。また、飯田の和紙は、その品質の高さから他の地域へも出荷され、高い評価を得ていました。
時代を超えて息づく“紙の町”飯田の現在
江戸時代に花開いた飯田の紙文化は、形を変えながらも脈々と現代に受け継がれています。
日本一のシェアを誇る美しい「飯田水引」
祝儀袋や贈答品を彩る「水引」。実はこの水引、現在でも全国シェアの約7割を飯田市とその周辺地域で生産していると言われています(飯田水引協同組合などの情報より)。
飯田水引の起源は、江戸時代に武士の髪を結う「元結(もとゆい)」の生産が盛んだったことに遡ります。元結も和紙をこよりにして作られるため、和紙生産の技術が応用されたわけです。
明治時代の「断髪令」によって元結の需要が減少すると、その技術は水引へと転換・発展しました。技術は息長く引き継がれ、今日では色鮮やかで多様なデザインの水引細工が生み出されています。飯田市内の工房では、伝統的な結びから現代的なアート作品まで、その技術の高さと美しさを間近に見ることができます。

落語「文七元結」に登場する“元結”も実は飯田産
人情噺の名作として知られる古典落語『文七元結(ぶんしちもっとい)』。この噺の中で重要な小道具として登場するのが「元結」です。
実は、この『文七元結』で扱われる元結も、当時江戸で広く流通していた飯田産の元結だったのではないかと言われています。飯田の紙製品が、物語の背景にある江戸の町人文化を支えていたかと思うと、飯田をこよなく愛する筆者としても感無量です。
「飯田」の地名に隠された意外な由来
豊かな紙文化を育んできた「飯田」という地名。その由来にも、いくつかの興味深い説があるので紹介させてもらいます。
英雄・坂上田村麻呂の伝説が息づく説
まず一つめの説は、平安時代の武将であり、征夷大将軍として知られる坂上田村麻呂にまつわる逸話です。
蝦夷征討の帰路、この地に立ち寄った田村麻呂が、住民から手厚いもてなし(美味しいご飯の提供)を受けたことに感謝し、この地を「飯田」と名付けたという伝説が語り継がれています。歴史的な確証は難しいものの、英雄譚として地域の人々に親しまれている説です。

「良い田んぼ」が転じて「飯田」になった有力説
もう一つ有力な説として、「飯」という字が「良い(いい)」に通じ、「良い田んぼが広がる土地」という意味で「飯田」となったというのがあります。類似の説として、「飯(いい)」とは「神様に供えるお米(御飯=いい)」を指すところから、それが穫れる「田」、つまり「飯田」と名付けられたとも言われています。
さらにもう一つ。「召し出す(=献上する)お米がとれる田」から来ているという解釈も、この地域の豊かさを示唆しているようで興味深く、筆者のお気に入りの説です。
いずれの説も、この地が古くから稲作に適した肥沃な土地であったことを物語っています。

紙文化の薫り感じる、南信州・飯田の奥深い魅力
お米の代わりに紙で年貢を納めていたという驚きの歴史。日本一の水引生産量。そして地名の由来に秘められた物語まで、南信州・飯田市は、知れば知るほど奥深い魅力に満ちた町です。
品質の高さを誇った和紙作りの技術は、色鮮やかな水引細工へと受け継がれ、現代も私たちの生活に彩りを与えてくれています。何気なく使っている祝儀袋の水引や、ふと耳にする地名の背景には、豊かな歴史と文化が息づいているという事実。それを知れば、山間の静かな町が、より一層優しく、深みのある魅力を放っていると感じられるのではないでしょうか。
いつか機会があれば、ぜひ飯田を訪れてみてください。その際には、「紙文化」の豊かさに触れてみることをおすすめします。きっと、新たな発見と感動が待っているはずです。