中央アルプスと南アルプス、二つの雄大な山脈に抱かれた伊那谷のまん中。ここに、歴史と伝説が息づく「くだものの里」、松川町があります。
春には淡いピンクの花が里を彩り、秋にはたわわに実った果実が甘い香りを放つ――。そんな穏やかな風景の裏には、戦国の城跡、不思議な伝説、そして天竜川と共に生きてきた人々の力強い物語が隠されています。
今回は、ただのどかなだけじゃない、松川町の奥深い歴史と魅力に迫るトリビアをご紹介します。
くだものの里を育んだ「暴れ天竜」
松川町が「くだものの里」として全国に知られるようになったのは、100年以上にわたる先人たちの努力の賜物です。ここは、地理的に梨栽培の最北限、りんご栽培の最南限にあたるという、まさに奇跡のような土地。この気候の境界線であることが、多様で質の高い果物を育む秘密なのです。
しかし、その豊かな恵みは、常に穏やかな自然からもたらされたわけではありませんでした。町の中心を貫く天竜川は、古くから「暴れ天竜」の異名を持ち、人々に豊かな水の恵みを与えると同時に、時には牙をむきました。
特に昭和36年の「三六災害」では町に甚大な被害をもたらしましたが、人々は不屈の精神で手を取り合い、見事に復興を遂げました。この経験は、松川町の人々の強い結束力の礎となっています。
恵みと試練をもたらす天竜川と共に歩んできた歴史こそ、松川町の風土を語る上で欠かせない第一章なのです。
霧に隠された名城「台城公園(大島城址)」と二つの伝説
町のシンボルといえば、天竜川の断崖絶壁にそびえる「台城公園(大島城址)」。現在は桜の名所として親しまれるこの公園は、かつて伊那谷の重要拠点として築かれた難攻不落の山城でした。
平安末期に大島氏によって築城されたと伝わり、戦国時代には武田信玄の伊那侵攻の舞台にもなりました。今も残る武田氏特有の「三日月堀」や、鋭く切り立った「堀切」を目の前にすれば、馬のいななきや兵士たちの鬨(とき)の声が聞こえてきそうです。
この城には、その歴史を彩る不思議な伝説が二つ、今も語り継がれています。

城を守った「大蛇ヶ城の大蛇」
大島城は別名「大蛇ヶ城(おろちがじょう)」とも呼ばれます。城の崖下、天竜川の深い淵には一匹の大蛇が棲み、いざという時には口から白い息(霧)を吐き出し、城全体を覆い隠して敵の目から守ったと伝えられています。
天正十年(1582年)、織田信長の軍勢がこの地に攻め寄せた際も、城はたちまち白い霧のベールに包まれ、織田軍は攻めあぐねました。しかし、一人の兵士が霧の源である淵に向かって矢を放つと、水面が大きく波立ち、傷ついた大蛇が姿を現したのです。すると、あれほど立ち込めていた霧は嘘のように晴れわたり、丸裸にされた城は、ついに落城してしまいました。 城の守り神であった大蛇の悲しい物語は、今も天竜川の川霧と共に、人々の記憶の中に生き続けています。
元旦に響く鳴き声「金鶏伝説」
もう一つは、落城にまつわる悲しい物語「金鶏伝説」です。
城が落ちるその時、城主の姫は、大切に育てていた黄金に輝く鶏を抱き、敵の手にかかることを拒んで城内の井戸へとその身を投げました。姫の悲運を伝えるこの井戸は「金鶏の井戸」と呼ばれ、不思議な言い伝えが残ります。
それは、一年の始まりである元旦の朝、この井戸のそばで静かに耳を澄ますと、地の底から今も姫を慰めるかのように、金の鶏のかすかな鳴き声が聞こえてくるというもの。新しい年を迎える静寂の中、あなたも歴史の彼方から届く声を探してみてはいかがでしょうか。
祈りと暮らしが息づく里山の風景
松川町の魅力は、城跡や伝説だけではありません。町内にある古刹・円満坊には、県の宝にも指定されている「阿弥陀如来坐像」が安置され、この地を治めた豪族たちの篤い信仰を今に伝えています。
そして何より、人々の暮らしが作り上げてきた里山の風景そのものが、松川町の宝物です。春には神社のしだれ桜が空を飾り、梨やリンゴの白い花が一斉に咲き誇る果樹園は、まるで雲の上にいるかのよう。夏から秋にかけては、もぎたての果実を味わう果物狩りが楽しめます。
これらは単なる風景ではなく、先人たちが土地を耕し、苗を植え、丹精込めて育んできた生きた文化遺産なのです。

おわりに ~歴史を味わう旅へ
戦国の記憶が眠る城跡、霧と水面に消えた伝説、そして「暴れ天竜」と共に生きてきた人々の力強さ。松川町は、豊かな果実を実らせるだけでなく、訪れる者の知的好奇心をくすぐる深い物語を実らせる町でもあります。
城跡を歩き、伝説に耳を傾けた後は、この土地の恵みから生まれたりんごワインやシードルで喉を潤すのも一興です。(松川町はシードル特区にも認定されています!)
ただの観光では終わらない、歴史のロマンと大地の恵みを五感で味わう旅へ。ぜひ一度、松川町を訪れ、あなただけのトリビアを見つけてみてください。