福姫(登久姫)|信長と家康の孫娘は、なぜ飯田に眠るのか

現在放送中の大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、第39回で徳川家康の重臣・石川数正が、ついに秀吉のもとへ出奔しましたね。

史実によると、これは天正13年(1585年)11月13日の出来事だったようです。このとき数正が岡崎から連れ出した者のなかに、信濃の名門・小笠原家から人質として預けられていた十代の若者がいました。のちの飯田城主、小笠原秀政です。

その秀政の妻となったのが、織田信長と徳川家康をともに祖父に持つ「福姫(ふくひめ)」でした。長野県飯田市、JR飯田駅にほど近い峯高寺(ほうこうじ)には、三つ葉葵を刻んだ彼女の墓がいまも守られています。

福姫は、ドラマや歴史小説では「登久姫(とくひめ)」の名で登場することがほとんどです。2023年の大河ドラマ『どうする家康』第24回でも、信康と五徳の幼い娘として、ほんの少しだけ姿を見せていました。そのときも登久姫という名でした。

けれども地元の飯田では、昔から「福姫」の名で親しまれてきました。本記事でも、飯田での呼び名にならって福姫と書きます。

信長と家康の孫娘が、なぜ伊那谷の城下町に眠っているのか。数正の出奔から始まる縁をたどりながら、その理由を見ていきます。

目次

父方の祖父は家康、母方の祖父は信長

岡崎城で生まれる

福姫が生まれたのは天正4年(1576年)3月、三河の岡崎城です。

父は徳川家康の長男・松平信康。母は織田信長の長女・五徳(徳姫)です。ふたりは永禄10年(1567年)、徳川と織田の同盟を固めるために、ともに9歳で夫婦になりました。その間に生まれた最初の子が福姫でした。その後に妹の熊姫(ゆうひめ)が生まれています。

つまり福姫は、信長と家康という戦国の覇者ふたりを祖父に持つ、とんでもなく稀有な血筋だったわけです。

ただし、跡継ぎとなる男子が生まれなかったことは、母の五徳と祖母の築山殿(瀬名)とのあいだに溝をつくったと伝えられます。この嫁と姑の不和が、のちの悲劇の伏線になったとみる人は少なくありません。

福姫(登久姫)はが織田信長と徳川家康を祖父に持つことがわかる系図
福姫(登久姫)系図
福姫(登久姫)が織田信長と徳川家康の孫娘であることがわかる系図
福姫(登久姫)の系図

3歳で父を失う

天正7年(1579年)、福姫の身辺は一変します。

父の信康は武田氏との内通などを疑われ、同年9月15日、遠江の二俣城で自害しました。祖母の築山殿も、それに先立って命を落としています。事件の背景には信長からの圧力があったとする従来の見方のほか、家康と信康の父子の対立を重く見る説も出されており、真相はいまも議論が続いています。

このとき福姫は満3歳。父の面影を覚えるには、まだ幼すぎる年齢でした。

翌年、母の五徳は娘ふたりを残して織田家へ戻ります。残された姉妹は祖父の家康に引き取られ、側室の西郡局のもとで育てられたと伝わります(西郷局とする説もあります)。

父を失い、母とも離れた姉妹は、こうして徳川家の姫として成長していきました。

石川数正の出奔と、人質の若者

福姫の生涯を追うには、のちに夫となる小笠原秀政の側からも話を進める必要があります。

小笠原氏は、信濃守護をつとめた家柄として知られる名門です。けれども戦国時代、武田信玄に信濃を追われ、一族は各地を流浪しました。秀政が永禄12年(1569年)3月に生まれたのも、信濃ではなく、山城国の宇治田原(現在の京都府宇治田原町)でした。

天正10年(1582年)、武田氏が滅び、6月には本能寺の変で信長が倒れます。主のいなくなった信濃をめぐる争いのなかで、秀政の父・小笠原貞慶は家康に従う道を選びました。その証として人質に差し出した長男の貞政(のちの秀政)の身柄は、家康の重臣・石川数正に預けられたのです。

ところが天正13年(1585年)11月13日、岡崎城代だった数正は突然徳川家を離れ、秀吉のもとへ走りました。このとき数正は、預かっていた貞政もいっしょに連れて行きます。

出奔の理由について、数正本人が語った確かな史料は見つかっていません。秀吉との交渉役を長くつとめたために家中で孤立していたという見方や、秀吉方に身内を人質として置いていた事情を挙げる見方など、さまざまな説が存在しています。

人質を連れ去られた形になった父の貞慶も、これを機に秀吉に従うことになりました。貞政は秀吉から名の一字を与えられ、「秀政」と名乗ります。徳川の人質だった若者は、こうして豊臣方の武将として歩み始めました。

秀吉が結んだ縁:徳川と小笠原の和睦

数正の出奔の翌年、天正14年(1586年)、家康は秀吉に臣従します。秀吉は妹の旭(あさひ)を家康の正室として送り、さらに生母の大政所まで三河へ下らせて家康の上洛を引き出しました。

こうして徳川と豊臣は手を結びます。けれども、いったん敵味方に分かれた徳川と小笠原の関係は、こじれたままでした。

その関係を結び直したのが、天正17年(1589年)8月の縁組です。この年の1月に父から家督を譲られた秀政は、秀吉の仲介で家康と和睦し、家康の孫娘である福姫を妻に迎えることを許されました。福姫は家康の養女という形で嫁いだとされます。

このとき福姫は数え14歳、秀政は21歳でした。

家康にとって福姫は、非業の死を遂げた長男が遺した娘です。その娘を、かつて自分の重臣とともに秀吉方へ走った家の当主に嫁がせることは、両家の和解をはっきり示す意味を持っていたと考えられます。信長の孫娘を、秀吉が仲立ちし、家康の孫として嫁がせる。天下人三人がそろって関わった、珍しい婚姻でもありました。

ふたりの夫婦仲は良かったとみられ、のちに8人の子が生まれています。

飯田城主夫人としての6年

結婚の翌年、天正18年(1590年)、秀政は小田原征伐で軍功を挙げます。ところが父の貞慶が秀吉の怒りを買って改易されたため、秀政は父とともにふたたび家康に仕えることになりました。家康の関東移封にともない、小笠原家は下総国古河(現在の茨城県古河市)に3万石を与えられます。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍につき、宇都宮城の守りについて功を挙げました。その恩賞として、翌慶長6年(1601年)、秀政は信濃国飯田5万石に加増移封されます。

武田信玄に信濃を追われてから、およそ半世紀。小笠原家は、ようやく父祖の地・信濃へ戻ってきました。しかも飯田周辺の伊賀良荘は、室町時代に一族の松尾小笠原氏や鈴岡小笠原氏が本拠を置いた土地です。小笠原家にとって、飯田はゆかりの深い場所でした。

飯田城に入ったとき、福姫は数え26歳、秀政は33歳。ここから福姫の、城主夫人としての飯田での暮らしが始まります。

もっとも、飯田での福姫の日々を具体的に伝える記録は多くありません。わかっているのは、彼女がこの城で6年あまりを過ごし、ここで生涯を終えたということです。

32歳で世を去った福姫と、菩提寺・峯高寺

慶長12年(1607年)10月18日、福姫は飯田城で亡くなりました。死因は疱瘡(天然痘)と伝えられます。享年は数えで32歳、満年齢では31歳でした。

秀政は城の外に墓所を設けて、福姫をそこに葬りました。そののち、慶林寺(けいりんじ)という寺をその墓所の地へ移し、福姫の法名「峯高院」にちなんで、寺の名を峯高寺と改めます。開山は照蓮社寂誉。こうして峯高寺は、小笠原家の菩提寺となりました。

境内にはいまも、徳川家の三つ葉葵を刻んだ宝篋印塔が、福姫の墓として祀られています。かたわらには、飯田観光協会による「福姫の墓」の案内板も立っています。

同じ年、秀政は出家して家督を長男の忠脩(ただなが)に譲ったとされます。妻を亡くした年の出家として語られることの多い出来事ですが、時期については異説もあります。

姫が遺した子どもたち

福姫と秀政のあいだには、6男2女が生まれたとされます。子どもたちは、信長と家康の血を引く者として、それぞれ有力な家と結ばれていきました。

続柄名前その後
長女万姫(敬台院)家康の養女として、阿波徳島藩主・蜂須賀至鎮に嫁ぐ
長男忠脩小笠原家の跡継ぎ。大坂夏の陣で戦死
次男忠真松本藩2代藩主。のち播磨明石、豊前小倉へ
次女千代姫(保寿院)秀忠の養女として、肥後熊本藩主・細川忠利に嫁ぐ
三男忠知三河吉田藩初代藩主
四男松平重直豊後高田藩初代藩主
五男忠慶因幡守。子孫は小笠原家の家臣に
六男長俊徳川家光の小姓

長女の万姫が嫁いだ蜂須賀至鎮は、秀吉の古くからの盟友・蜂須賀小六(正勝)の孫にあたります。家康は、自分と信長に共通するひ孫を、秀吉の盟友の孫に嫁がせたことになります。

次女の千代姫は、細川忠利の正室となりました。大名の妻の多くは江戸で葬られましたが、秀忠の養女であった千代姫は、熊本で夫とともに葬られています。

長男の忠脩が妻に迎えたのは、本多忠政に嫁いだ妹・熊姫の娘、亀姫でした。幼くして父を失い、ともに家康のもとで育った姉妹の血筋が、子の代でふたたび結ばれたことになります。

一方、母の五徳は娘の死後も長く生き、晩年は京都で「岡崎様」と呼ばれていたと伝わります。孫やひ孫の家から、乳母選びの相談を受けるほど頼りにされていたという話も残っています。

大坂夏の陣:秀政と忠脩の最期

慶長18年(1613年)、秀政は信濃国松本へ8万石で移ります。「松本」はかつて小笠原家が名づけた地名とされ、一族にとっては父祖の城への帰還でした。このとき峯高寺の2世・龍冏も秀政に従い、松本にも峯高寺を開いています。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では忠脩が軍を率いて出陣し、秀政は松本城の留守を守りました。翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、秀政が出陣して忠脩が留守を守る手はずでした。ところが忠脩は国元を抜け出し、父の軍に加わります。重大な軍令違反にあたる行動でしたが、家康はこれを許しました。

5月7日、天王寺口の戦い。小笠原父子は本多忠朝の救援に向かい、大坂方の激しい攻撃を受けます。忠脩はこの戦いで討ち死にし、秀政も深手を負って戦場を離れたのち、まもなく亡くなったとされます。享年47。救援の相手だった本多忠朝も、同じ戦いで命を落としました。

福姫の死から8年。夫と長男は、同じ戦場で生涯を閉じたことになります。

このときの父子の戦死は、のちに小笠原家が改易の危機に見舞われるたび、「父祖の勲功」として家を救う一因になったといわれます。家督は次男の忠真が継ぎ、小笠原家はやがて播磨明石、豊前小倉へと移っていきました。

小笠原家と位牌が去っても、福姫の墓は飯田に残った

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小笠原家の国替えとともに、峯高寺も旅をしました。松本から明石、小倉、田川、行橋へと場所を移し、明治26年(1893年)に現在の福岡県京都郡みやこ町に落ち着いています。福姫の位牌は、いまもこのみやこ町の峯高寺に祀られています。

けれども、墓は動きませんでした。

飯田の峯高寺は、小笠原家が去ったあとも寺として残り、三つ葉葵の墓を守り続けてきました。飯田と福岡の峯高寺は、どちらも小笠原家の菩提寺として、それぞれの地で浄土宗の寺々を束ねる役目を担ったとされます。

小笠原家にとって飯田は、慶長6年(1601年)から慶長18年(1613年)までの12年あまりを過ごした任地のひとつにすぎません。けれども飯田の人々にとって、この町は信長と家康の孫娘が生涯を終え、いまも眠っている場所です。家も位牌も遠くへ去ったけれど、墓だけはこの町に残りました。稀有な姫君の墓所がすぐそばにあることを、地元の人々は長く誇りとしてきました。飯田が福姫を「わがまちの姫」として語り継いできたのは、そのためでしょう。

信長と家康の孫娘として生まれ、幼くして父を失い、城主夫人として飯田で若くして世を去った姫。その起伏に富んだ生涯は、史実の記録だけでなく、さまざまな物語としても描かれてきました。そのひとつ、牧内雪彦さんの『信州飯田 郷土人物講談12話』(南信州新聞社出版局、2001年)には、福姫と秀政の生涯を寺子屋講談に仕立てた一席、「峯高寺縁起・福姫絵姿」が収められています。

講談のなかでは、峯高寺は生前の福姫が願って建てられた寺として描かれ、亡き妻の姿を絵師に描かせる秀政も登場します。記録のうえでは、寺が墓所の地へ移されたのは姫の死後のことです。史実の隙間を物語で埋め、福姫を飯田の人として描こうとしたところに、この土地が姫に寄せてきた思いの深さが表れています。

2023年の『どうする家康』放送時には、南信州観光公社が福姫を飯田ゆかりの姫君として紹介し、ツアーなどでのPRにも取り組んでいます。

峯高寺は、飯田市松尾町4丁目にある浄土宗の寺です。JR飯田駅から近く、境内の福姫の墓は、いまも静かに守られています。


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