長野県飯田市の中心部にあった飯田城。その本丸のさらに奥、段丘が東へ突き出したいちばん先に、「山伏丸」と呼ばれた曲輪がありました。
本丸、二の丸、出丸。曲輪の名は、ふつう城のなかでの役割や位置から付けられます。桜丸のように、植えられた木に由来する名もあります。けれど山伏丸だけは、城とは関わりのない修験者の呼び名を負っています。
この名の由来をたどっていくと、城跡を離れて、城下の西にある愛宕(あたご)という土地に行き着きます。城の始まりを語る伝えは、二つの場所がかつて入れ替わったと語っているのです。
段丘の突端、本丸の奥
飯田城は、松川の谷をのぞむ段丘の突端に築かれた城です。飯田市の解説によれば、本丸は突端の近くに置かれ、その裏側に山伏丸、表側に二の丸・出丸・桜丸・三の丸が重なっていました。西の町なかから歩いてくると、城の外から内へと進み、最後に行き着くいちばん奥が山伏丸ということになります。
奥にあるからといって、後から付け足された曲輪ではなかったようです。江戸時代に記されたとみられる『飯田町旧記』は、毛利秀頼が入る前の飯田城は山伏丸・本丸・二の丸までだったと伝えています。三の丸と追手門を設け、城下の町を広げたのは、天正18年(1590年)にふたたび飯田へ入った秀頼でした。山伏丸は、城がまだ小さかったころから、その一角をなしていたことになります。
いま、山伏丸のあたりには温泉旅館が建っています。城跡は学校や庁舎、博物館に姿を変えましたが、段丘の突端という地形は変わらず、東には伊那谷と南アルプスの山並みが開けています。

二つの地誌、二つの来歴
飯田城がいつ、誰によって築かれたのかを示す当時の史料は残っていません。手がかりになるのは、江戸時代に書かれた地誌です。飯田市の解説は、そのうち二つを紹介しています。
ひとつは『信陽城主得替記』です。これによれば、阿波国坂西(現在の徳島県)の近藤周家が源頼朝の命で飯田の地頭となり、建久6年(1195年)に「飯坂」という土地に館を構えました。その孫の長門守が、山伏の修行場だった場所を城とし、代わりに飯坂の地を山伏に明け渡します。明け渡された土地が愛宕神社で、飯田城の本丸の奥が山伏丸と呼ばれるのはそのためだ、というのです。
もうひとつは『伊那温知集』です。こちらは坂西氏の初代を信濃守護・小笠原貞宗の三男・宗満とし、貞和年間(1345〜1350年)に城を築いたと記します。そして子孫の政忠(1393〜1464年)が、「松原の城」と愛宕神社の土地を取り替えたと伝えています。
二つの話は、坂西氏の出自も、出来事の時代も食い違っています。鎌倉時代の初めとする話と室町時代とする話とでは、二百年以上の開きがあります。何と何を取り替えたのかという書きぶりも同じではありません。坂西氏の出自については、小笠原氏の一族とする説と阿波の近藤氏の一族とする説があり、いまも諸説に分かれたままです。
それでも二つの地誌は、城の始まりを愛宕の土地との取り替えに結びつけている点で一致しています。細部はばらばらなのに、交換の相手先だけは動かない。山伏丸の由来を考えるうえで、この一点は見逃せません。

愛宕に残った行場の記憶
愛宕は、飯田城跡から西へ、旧城下を抜けた先にある土地です。いまは愛宕稲荷神社が鎮まっています。
社伝によれば、この神社のはじまりは、坂西氏の当主・由政が伏見稲荷を勧請した「由政稲荷」でした。文禄年間(1592〜1596年)、京極高知が城下の町並みを整えたとき、稲荷は当時「愛宕山地蔵寺」の境内だったこの地へ移され、「愛宕稲荷神社」と呼ばれるようになったといいます。神社の側でも、ここを坂西氏の飯坂城の跡と伝えています。
地元の解説によれば、明治より前の愛宕は修験の拠点で、神と仏が混じり合う場所でした。江戸時代には真言宗醍醐寺三宝院の末寺として「愛宕山」が置かれ、のちに寺号を地蔵寺と改めて明治まで続いたとされます。三宝院は、真言系の山伏、いわゆる当山派修験を束ねた寺です。明治の神仏分離で地蔵寺は廃寺となり、境内に祀られていた愛宕社も、明治の末に稲荷社へ合わせて祀られました。
城の始まりを語る伝えと、愛宕という土地の来歴は、ここで一本につながります。坂西氏の館があったと伝わる土地が、のちに山伏の寺の境内となり、江戸時代を通じて修験の場であり続けた。伝えのいう「山伏に明け渡した土地」と、実際に山伏の寺があった土地とが、同じ場所を指しているわけです。
境内には、飯田市の天然記念物「清秀桜(せいしゅうざくら)」が立っています。仁治年間(1240〜1243年)に清秀法印が手植えしたと伝わる紅彼岸桜で、市の資料は樹齢を約750年としています。法印は、僧や修験者に与えられた位の名です。桜の名前そのものが、この土地の主が誰だったのかを物語っています。

もうひとつ、目を留めておきたいことがあります。愛宕の土地は、城の都合で二度動いています。一度目は、城を築くために行場が明け渡されたとき。二度目は、京極高知が城下を割り直し、押し出された稲荷がこの地へ移されたときです。城が形を変えるたびに、その波がこの小さな土地にまで届いていたことになります。
風越山を仰ぐ土地
山伏が修行の場としたのは、この段丘だけではありませんでした。
飯田の町の西には、飯田のシンボルとされる風越山(ふうえつざん、標高1,535メートル)がそびえています。平安時代から和歌に詠まれてきた霊峰で、山頂近くには白山社の奥社が鎮まっています。社伝では加賀白山を開いた泰澄の開山とされ、ふもとの里宮はかつて白山寺という寺でした。山中には不動堂や五輪塔があったことが、絵図からわかっています。風越山もまた、神と仏が入り交じる山岳信仰の山でした。
現在の奥社本殿は永正6年(1509年)の建立で、国の重要文化財です。飯田市の解説は、これを建てたのは当時飯田郷を治めていた坂西氏の有力者とみています。「大旦那源政満」と記された鰐口の銘文が江戸時代に書き写されており、源氏の流れをくむともいわれる坂西氏の一人と考えられるためです。
山伏の行場を城に変えたと伝わる一族は、霊山に社殿を建てる一族でもあったことになります。坂西氏にとって修験は、追い払う相手ではなく、すぐ隣にある信仰だったのでしょう。行場を「奪った」のではなく「取り替えた」と語られてきたのも、こうした間柄を思えば不思議ではありません。

名前が、土地の記憶をつないだ
飯田城の城主は、坂西氏のあと、武田、毛利、京極、小笠原、脇坂、堀とめまぐるしく入れ替わりました。それでも山伏丸の名は、江戸時代の記録にそのまま残っています。
伝えがなぜ語り継がれたのかを、確かめる手立てはありません。ただ、山伏丸という名前と愛宕という土地とが、互いを裏づけ合う関係にあったことは確かです。城の奥に山伏の名を持つ曲輪があり、城下の西に山伏の寺がある。どちらか片方だけなら忘れられたかもしれない話が、二つの場所に分かれて残ったことで、消えずにすんだと考えることもできます。
愛宕稲荷神社の境内の東側には、飯田藩の家老・安富家が奉納したと伝わる千代蔵桜があり、城を望む側に植えられたといわれます。行場を明け渡したと伝わる土地から、城の方角へ枝を広げる桜です。城が取り払われたいまも、二つの場所は同じ町のなかで向き合っています。

【ウェブサイト】
- 飯田市「飯田城の歴史」(文化財保護いいだ):曲輪の配置、『信陽城主得替記』と『伊那温知集』の築城の伝え、坂西氏の出自の二説、『飯田町旧記』にみる毛利秀頼以前の城の範囲
- 飯田市「白山社奥社本殿」(文化財保護いいだ):風越山の信仰、白山寺と不動堂、本殿の建立年、鰐口銘の源政満と坂西氏
- 飯田市 市内の天然記念物等の一覧(PDF):愛宕神社の清秀桜の伝えと樹齢
- 長野県神社庁「愛宕稲荷神社」:文禄年間の遷座、愛宕山地蔵寺の境内、愛宕社の合祀
- JAみなみ信州「愛宕稲荷神社(飯田市愛宕町)」(行こう!みなみ信州 ふるさと再発見):坂西氏による稲荷の勧請の伝え、修験の拠点としての愛宕、醍醐寺三宝院の末寺と地蔵寺
【文献】(飯田市の解説が案内しているもの)
- 『飯田城ガイドブック ―飯田城と城下町を探ろう―』飯田市美術博物館、2005年
- 『飯田・上飯田の歴史』上、飯田市教育委員会、2012年

