城は消えても、門は町に残った|飯田城、四つの門のゆくえ

飯田城は、明治維新のあと徹底的に壊されました。

天守も櫓も御殿も、いまは残っていません。城跡には神社が建ち、小学校が建ち、県の合同庁舎が建っている。飯田城を訪ねた人の多くが、赤門を眺めて「残っているのはこれだけか」と思って帰るのは、無理もないことです。

けれど実際には、赤門のほかに、飯田城の門は四つ残っています。しかも四つとも、城跡の外にある。市内のあちこちに散らばって、それぞれ別の顔で立っています。

壊された城の門が、どうやって生き延びたのか。そのゆくえを追ってみます。

目次

四つの門

飯田市によれば、赤門(桜丸御門)のほかに残る飯田城ゆかりの門は、次の四つです。

  • 二の丸の御門(八間門):松尾久井の民家
  • 桜丸の御門(経蔵寺山門):上郷別府の経蔵寺
  • 桜丸西門(雲彩寺山門):上郷飯沼の雲彩寺
  • 馬場調練場の門(脇坂門):馬場町

いずれも文化財に指定されており、八間門と経蔵寺山門は、国の重要美術品にも認定されています。建てられた当時と同じ位置にあるのは赤門だけで、この四つは、いずれも場所を移して今日まで残りました。

民家になった門

もっとも堂々としているのは、松尾久井に残る八間門でしょう。

二の丸の正門だった櫓門で、門の上に櫓を載せた、守りの堅い形式です。1階部分は文禄年間(1592〜1596年)、2階部分は江戸時代前期の建築と推定されており、現存する飯田城の建物のなかでもっとも古いものです。門扉の腰から上が太い格子になっているのは戦国時代末期の特徴で、同じ例は和歌山城の岡口門や熊本城の不明門など、全国でも数えるほどしかありません。2階には、真下の敵を攻撃するための石落としも設けられています。

「八間門」という名は、17世紀前半の絵図にすでに記されており、古くからそう呼ばれていたようです。

明治4年(1871年)、飯田藩が廃藩になると、この門は払い下げられて、松尾の羽根庄・木下家へ運ばれました。

おもしろいのは、移し方です。城にあったころ、この門の両脇には石垣があって、四角い空間で敵を足止めする桝形(ますがた)を形づくっていました。木下家へ移すにあたって、その石垣の代わりに長屋が移され、門の間口も少し詰められたといいます。長屋もまた、城内のどこかの建物だったといわれます。門だけでは形にならないから、城の別の建物を連れてきて脇を固めた、ということなのでしょう。

この長屋の柱の間隔には、関西の寸法である「京間」が使われています。飯田市の解説は、初期の飯田城に上方の寸法体系が持ち込まれていた可能性を指摘しています。この城を大きく造り替えたのが、毛利秀頼・京極高知という豊臣家の家臣だったことと、あわせて考えたくなる話です。

2階は明治20年ごろ、隣にできた小学校の職員室として使われた時期があり、天井にその痕跡が残っています。城の櫓門が、学校の職員室になる。この一行に、明治という時代のありようが詰まっているように思います。

八間門は昭和24年(1949年)に国の重要美術品に認定され、平成10年(1998年)には飯田市の有形文化財に指定されました。

寺になった門、二つ

残る門のうち二つは、寺の山門になりました。上郷別府の経蔵寺と、上郷飯沼の雲彩寺です。

経蔵寺の山門は、もともと飯田城の桜丸の門として建てられた薬医門です。宝暦年間(1751〜1764年)に赤門が建てられることになって城内での役目を終え、飯田藩の家老・安富家の屋敷へ移されました。**つまりこの門は、赤門の前任者にあたります。**安土桃山時代の作風をよく伝える門で、太い柱や大きな蟇股(かえるまた)、江戸時代のものとは違う直線的な扉の金具に、その古さが表れています。

安富家の屋敷跡は、いまの飯田市美術博物館の敷地にあたり、そこには「安富桜」と呼ばれるエドヒガンの巨木が立っています。経蔵寺の山門は、かつてその桜のそばに建っていたことになります。

雲彩寺の山門は、桜丸の西側にあった門といわれます。18世紀前半の建築とみられる薬医門で、向かって左側には潜門(くぐりもん)の扉が残り、右側には塀がついていた痕跡があります。

ここまでは、それぞれ別の門の、別の物語です。ところが二つの来歴を並べると、同じ名前が二度出てきます。

明治4年(1871年)、飯田城の城門などが払い下げられた際、この二つの門はいずれも旧上郷村の斉藤氏が買い受けました。そして時を経て、いずれも旧上郷村の吉川氏があらためて買い受け、寺へ寄付しています。経蔵寺へは大正3年(1914年)ごろ、雲彩寺へは大正10年(1921年)ごろのことでした。

城が壊された年に、門を買い受けた人がいた。そして四十年、五十年ののちに、それを買い直して寺に納めた人がいた。二つの寺は、どちらも旧上郷村にあり、互いに歩いて行き来できるほどの距離にあります。

二人がどういう考えでそうしたのか、市の解説は多くを語りません。それでも、二つの門が城を出たあと半世紀を越えて失われず、いまも寺の門として使われているのは、上郷の二人の手を経たからです。

帰ってきた門

四つめの脇坂門は、少し毛色が違います。

この門は、飯田藩の馬場調練場にあったとされる門です。飯田城主が脇坂氏だった時代(1617〜1672年)に、近くに家老・脇坂玄蕃(げんば)の屋敷があったことから、いつのころからか「脇坂門」と呼ばれるようになったといわれます。ただ、建物そのものは部材の傷み具合などから寛政年間(1789〜1800年)ごろの建築と推定されており、脇坂氏が飯田を去って百年以上のちのものです。名前は門そのものより、門の建つ場所に由来していたのかもしれません。

明治2年(1869年)2月、調練所の修理にあたって、この門は城内の二の丸の地へ移されたと記録されています。廃藩の二年前、まだ藩があるうちに動いた門です。以後、現在の飯田市美術博物館の正面にあたる場所に建っていました。

そして平成26年(2014年)3月、門は本来あった位置に近い、馬場町の現在地へふたたび移されました。いまは旧飯田測候所の敷地に建っています。

百四十年以上を経て、もとの場所のそばへ戻ってきた。四つの門のなかで、これだけが「帰ってきた門」です。

石垣の石は、橋になった

城のかけらが姿を変えて残ったのは、門だけではありません。

江戸時代、飯田の城下町は谷川という深い谷によって南北に分かれ、そこに木の橋が架けられていました。廃城後の明治11年(1878年)、この谷にアーチ形の石橋が完成します。石を提供したのは飯田町の士族たちで、積まれたのは飯田城の石垣の石でした。

橋は飯田城の古い名をとって「長姫橋(おさひめばし)」と名づけられ、その形から「めがね橋」とも呼ばれました。昭和22年(1947年)の大火のあと、谷は埋められて公園になりましたが、橋のたもとの階段を下りると、いまも石積みのアーチを見ることができます。

訪ねるときに、心得ておきたいこと

これらの門を歩いて回るのは、飯田城の楽しみ方として、かなり贅沢な部類だと思います。ただし、心得ておきたいことがあります。

八間門は個人のお宅です。 所有者の方の暮らしの場に建っている門で、公開施設ではありません。見学の際は所有者へ声をかけ、駐車についても所有者や周辺の方への配慮が求められます。

経蔵寺と雲彩寺は、いまも活動しているお寺です。 行事の妨げにならないよう気を配り、境内に入る場合はお寺に一声かけてください。雲彩寺には、国の史跡「飯田古墳群」のひとつ、飯沼天神塚古墳もあります。

脇坂門には駐車場がありますが、周辺は道幅の狭い旧城下町です。通行に気をつけてください。

門が今日まで残っているのは、持ち主の方々が長いあいだ守ってこられたからです。訪ねる側の作法が、次の百年を左右します。

城は、町に溶けた

飯田城は壊されました。けれど、消えてはいませんでした。

門は民家の入口になり、寺の山門になり、一つはもとの場所のそばへ戻りました。石垣の石は、町の南北をつなぐ橋になった。城という一つのまとまりが解体されて、その断片が町のあちこちに散らばり、それぞれの場所で別の役目を引き受けながら生き延びたのです。

飯田城の遺構が少ないのは事実ですが、「少ない」で片づけるには惜しい残り方をしています。


参考資料

【ウェブサイト】

【文献】(上記の市の解説が案内しているもの)

  • 『飯田城ガイドブック ―飯田城と城下町を探ろう―』飯田市美術博物館、2005年
  • 『伊那』1969年10月号(脇坂門の移築記録)
  • 『飯田市歴史研究所年報』4号、飯田市歴史研究所、2006年

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