消えた城の輪郭│飯田城とは、どんな城だったのか

長野県飯田市の中心部に、かつて飯田城という城がありました。

過去形で書くしかないのは、天守も櫓も御殿も、いまは何ひとつ残っていないからです。城跡には神社が建ち、小学校が建ち、県の合同庁舎と美術博物館が建っている。散歩のつもりで歩けば、そこが城だったと気づかないまま通り過ぎてしまうかもしれません。

それでも飯田城は、室町時代の豪族・坂西(ばんざい)氏の城にはじまり、武田氏の伊那谷支配の拠点となり、武田氏が滅んだ年には織田信長を迎えています。そして江戸時代には、堀家十二代がおよそ二百年にわたって、この城から飯田藩を治めました。

消えた城の輪郭を、たどってみたいと思います。

目次

城は、どこにあったのか

飯田城は、南に松川の谷をのぞむ段丘の突端に築かれていました。

段丘の突端は、城を置くのに都合のよい地形です。崖がそのまま守りになり、攻め口になりやすい付け根の側を堀で断ち切れば、少ない普請で堅い城になる。飯田城が山城でも平城でもなく「平山城」とされるのは、この立地によります。段丘を堀で刻んで曲輪を並べるのは、伊那谷の城によく見られる造り方です。

飯田市の解説によれば、城の中心である本丸は段丘の先端近くに置かれ、その奥に山伏丸、手前の側に二の丸・出丸・桜丸・三の丸が重なっていました。現在の地図に重ねると、おおよそ次のようになります。

  • 本丸跡 ── 長姫神社、飯田市美術博物館の駐車場
  • 二の丸跡 ── 飯田市美術博物館
  • 出丸跡 ── 追手町小学校
  • 桜丸跡 ── 長野県飯田合同庁舎の一帯(赤門が建つ)
  • 三の丸跡 ── 現在の市街地

城が消えたというより、城の上に町が重なった、と言ったほうが近いのかもしれません。

はじまりは、修験者の行場だった

飯田城が築かれる前、この場所は山伏(修験者)の修行の場だったといわれています。

江戸時代の地誌のひとつは、坂西氏が山伏の行場を城地とし、代わりに別の土地を山伏に明け渡したと伝えています。明け渡された土地が現在の愛宕神社で、本丸の奥の曲輪が「山伏丸」と呼ばれるのはそのためだ、というのです。

城が築かれ、城主が何度も入れ替わり、やがて城そのものが取り払われても、曲輪の名前だけは、この土地が城になる前の記憶をとどめていたことになります。

坂西氏の出自については、信濃守護・小笠原氏の一族とする説と、阿波国(現在の徳島県)出身の近藤氏の一族とする説があり、諸説に分かれています。一族が天正10年(1582年)に滅んで文書が残らなかったため、築城の年代を含め、はっきりしたことはわかっていません。確かな史料に坂西氏の名が見えるのは15世紀に入ってからで、室町時代の中ごろには飯田郷を治める立場にあったとみられています。

[関連記事⑦「山伏丸と修験の前史」/記事⑧「坂西氏とは何者だったのか」(近日公開)]

武田の城になる

天文23年(1554年)、甲斐の武田氏が下伊那に攻め入り、この地を支配下に置きます。

侵攻の直後も、飯田城の城主は坂西氏だったようです。永禄5年(1562年)、坂西長忠が小笠原氏の所領を侵して討ち取られる事件が起こり、そのあと武田家の重臣・秋山虎繁(信友)が城代として入った、と江戸時代の歴史書は伝えています。

武田氏は、大島城(現在の下伊那郡松川町)とともに飯田城を下伊那の拠点として整えました。ただ、長篠の戦い(1575年)のあとに武田方が出した作戦の指示書では、重要な拠点として挙げられているのは高遠城と大島城で、飯田城の名は見えません。飯田市の解説は、飯田城が実際に下伊那の要となったのは、武田氏の時代でも終わりに近いころだったのではないか、とみています。

[関連記事⑨「秋山虎繁の改修と、武田の伊那谷支配」(近日公開)]

織田信長が、ここに来た

天正10年(1582年)2月、織田軍が伊那谷へ攻め込みます。下伊那の諸将が相次いで織田方に下ると、飯田城を守っていた坂西織部と保科正直は、その夜のうちに城を捨てて退きました。3月11日、武田勝頼は甲斐の田野で自刃し、武田氏は滅亡します。

3月15日、信長は飯田城に入り、勝頼父子の首を城下にさらしたと伝えられています。17日には飯田を発っていますから、滞在は二日あまり。飯田城の歴史のなかで、もっとも「天下」に近づいた数日でした。

[関連記事⑤「織田信長が飯田で首実検をした日」(近日公開)]

城主が、めまぐるしく変わる

武田氏の滅亡後、信長は伊那郡を家臣の毛利秀頼に与えました。名前から中国地方の毛利氏を思い浮かべる方が多いのですが、まったく別の家系です。

ところがその三か月後、本能寺の変で信長が倒れると、旧武田領は徳川・北条・上杉が入り乱れる争奪戦(天正壬午の乱)の舞台になります。下伊那の大半を押さえたのは徳川方についた下条頼安で、北条軍が迫った際には飯田城に籠城しています。天正14年(1586年)の末から翌年の初めにかけては、徳川家臣の菅沼定利が飯田城に移り、ここを拠点に下伊那を治めました。

天正18年(1590年)、家康が関東へ移されると、毛利秀頼がふたたび飯田に入ります。ここから飯田城は大きく姿を変えました。江戸時代に記された『飯田町旧記』によれば、それまでの飯田城は山伏丸・本丸・二の丸までの城で、秀頼が三の丸と追手門を設け、城下町を広げたといいます。文禄2年(1593年)に秀頼が亡くなると、娘婿の京極高知が跡を継ぎ、のちに10万石に加増されました。この時期から、城には大きな石で石垣が築かれ、主要な門には瓦が載るようになります。

飯田市の解説は、現在知られる飯田城の形をつくったのは、毛利秀頼・京極高知ら豊臣家臣による整備だとしています。武田と徳川の拠点だった城が、天下人の時代の城に書き換えられたのが、この十数年でした。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いののち、京極高知は丹後へ移り、翌慶長6年(1601年)、下総古河から小笠原秀政が5万石で入ります。秀政も慶長18年(1613年)には松本へ移され、飯田はいったん幕府の直轄地となりました。

元和3年(1617年)、伊予大洲から脇坂安元が5万5000石で入ります。文武に優れた名君として知られた人物で、脇坂氏の時代に、城下町を取り囲む惣構えが完成したといわれます。安元が養子・安政を迎えるために御殿を建て、多くの桜を植えたことから名がついたのが「桜丸」です。曲輪の名前が、防御でも権威でもなく、植えられた木に由来している。ずいぶん優しい命名です。

[関連記事⑥「松本城の天守は、もとは飯田城のものだった?」/記事⑪「天守を持たなかった城」(近日公開)]

そして、堀家十二代

寛文12年(1672年)、脇坂安政が播磨龍野へ移され、代わって下野烏山から堀親昌が入りました。

石高は2万石。脇坂氏の5万5000石から大きく減り、領地も飯田城の周辺に限られました。小藩の財政は早くから苦しく、藩の台所は城下の御用達商人に頼る形が続いていきます。

初代の親昌は、和歌や紀行文をよくした文人大名でした。ただ、飯田に入った翌年の寛文13年(1673年)7月に68歳で世を去っており、飯田藩主としての在任は一年に満ちません。以後、堀家は明治にいたるまで十二代、およそ二百年にわたって飯田を治めます。

ここで押さえておきたいのは、いま飯田城跡で目にできるものの多くが、この二百年の産物だということです。唯一もとの場所に残る赤門は、藩主・堀親長の時代に再建されたもので、宝暦3年(1753年)8月に工事がはじまり、翌宝暦4年(1754年)に完成しました。鬼瓦に刻まれた梅の文様「向梅(むこううめ)」は、堀家の家紋です。

安政2年(1855年)の大地震で本丸御殿が壊れてからは、桜丸が藩政の中心になりました。飯田城の最後の姿は、武田の城でも脇坂の城でもなく、堀の城だったのです。

[関連記事⑩「堀家十二代・二百年の飯田藩」(近日公開)]

城が消えたあと

明治維新ののち、飯田城は徹底的に取り壊されました。建物は解体され、石垣は崩され、堀は埋められています。飯田市の解説は、その背景として、堀氏が幕府寄りの立場(佐幕派)にあったことを挙げています。

そのなかで、桜丸御門だけがもとの場所に残りました。門は飯田県、筑摩県飯田支所、下伊那郡役所と、時代ごとに役所の正門として使われ、大正13年(1924年)に長野県へ寄付されてからは下伊那地方事務所の正門になります。昭和46年(1971年)に長野県飯田合同庁舎が建って通用門としての役目を終え、昭和60年(1985年)11月、飯田市の有形文化財に指定されました。

城門が建てられた当時と同じ場所に残っている例は、長野県内では小諸城の大手門と三の門、上田城の藩主居館表門、そして飯田城の桜丸御門の4棟だけです。

本丸跡には、堀家ゆかりの長姫(おさひめ)神社が建っています。祀られているのは「御三霊」と呼ばれる堀秀政・親良・親昌の三代。秀政は織田信長・豊臣秀吉に仕えた堀家の祖で、親良はその子、親昌は孫にあたり、飯田に入った初代藩主です。「長姫」は、飯田城の別名でもあります。

城が失われたあと、その中心に旧藩主家の祖先を祀る社が建った。飯田の人々にとって堀家がどういう存在だったのかが、この一事によく表れているように思います。

輪郭は、まだ消えていない

飯田城は消えました。けれど、すっかり消えたわけではありません。

赤門は合同庁舎の前に立ち続けています。取り払われた門のいくつかは、民家の門や寺の山門に姿を変えて生き延びました。石垣の石は、明治11年(1878年)に城下の谷に架けられた石橋に積まれています。そして曲輪の名は、城になる前の記憶をいまも伝えている。

このカテゴリ「飯田城をたどる」では、そうした断片をひとつずつ拾い集めていきます。飯田城そのものだけでなく、その周囲の伊那谷に広がる城と人の物語、たとえば神之峰城に伝わる姫の話にも、いずれ触れることになるでしょう。

まずは、いまも市内に散らばる「城の門」を訪ねるところから始めてみます。

[関連記事③「城は消えても、門は町に残った」/記事②「飯田城跡を歩く」]


参考資料

【ウェブサイト】

  • 飯田市「飯田城の歴史」(文化財保護いいだ): 曲輪の配置、坂西氏の出自の諸説と山伏丸の伝承、武田・織田・徳川期の経過、毛利・京極による整備、廃城の背景
  • 飯田市「飯田城桜丸御門(通称赤門)」: 赤門の再建年と堀家の家紋、桜丸の由来、県内の当初位置に残る城門4棟
  • 長野県南信州地域振興局「赤門について」: 明治以降の赤門の使われ方、長野県への寄付
  • 飯田市「指定文化財一覧」: 神の峰城跡(天文23年の落城)ほか
  • 長野県教育委員会「長野県文化財保護審議会への諮問について(信濃国飯田城絵図)」: 脇坂家の播磨龍野への転封
  • コトバンク「飯田藩」(日本大百科全書・世界大百科事典): 歴代藩主の入封と石高、堀氏の領地と藩財政
  • コトバンク「堀親昌」「堀親良」(日本人名大辞典+Plus): 親昌の生没年と事績、堀家の系譜
  • 飯田市美術博物館 特別展「信州飯田領主 堀侯」(2010年)展覧会概要: 長姫神社の「御三霊」
  • 国土交通省中部地方整備局「めがね橋(長姫橋)」: 飯田城の石垣の石を用いた石橋、「長姫城」の呼称

【文献】
(上記の市の解説が案内しているもの。飯田市立図書館で閲覧できます)

  • 『飯田城ガイドブック ―飯田城と城下町を探ろう―』飯田市美術博物館、2005年
  • 『飯田・上飯田の歴史』上、飯田市教育委員会、2012年
  • 『飯田城跡』飯田市教育委員会、2007年

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