善光寺だけでは片詣り│飯田・元善光寺に伝わる、四十一年の話

長野県には、「善光寺参りだけでは片詣り」という言い伝えがあります。

では、その「片方」はどこかというと、飯田市座光寺にある元善光寺(もとぜんこうじ)です。

なぜ、飯田のお寺に詣らないと「片方だけ」になってしまうのか。その理由は、善光寺という寺の名前そのものに関わっています。

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麻績の里の、本多善光

古く、この地は「麻績の里(おみのさと)」と呼ばれていました。

寺の縁起によれば、推古天皇10年(602年)。この地に住む本多(本田)善光という人物が、都に上った折、難波の堀江(現在の大阪市)で一光三尊の如来像にめぐりあいます。

善光はこの像を背負って故郷へ連れ帰り、清めた臼の上に安置しました。すると、臼が燦然と光を放った――だからこの地を「坐光寺(ざこうじ)」と呼ぶようになった、と伝えられます。

いまも飯田市の地名として「座光寺」が残っているのは、この話に由来します。

臼に戻ってしまう如来

縁起には、続きがあります。

親子3人が朝夕に礼拝供養していると、そのご利益が世間に知られるようになりました。そこで小さなお堂を建てて如来をお移ししたのですが、朝になると決まって元の臼の上に戻ってしまう。

如来は言ったといいます。「たとえ立派なお堂に安置されていても、私の名を唱える者がいないところには住めない」

それを聞いた善光は、以後41年ものあいだ、臼の上に安置して供養を続けました。

この「41年」という妙に具体的な数字が、なんとも印象に残ります。

芋井の里へ

そして皇極天皇元年(642年)、勅命により本尊は芋井の里――現在の長野市へ遷座されます。新しく建てられた寺は、善光の名をとって「善光寺」と名づけられました。

一方、飯田には勅命によって木彫りの三尊像が残されました。以後、坐光寺は「元善光寺」と呼ばれるようになります。

そして如来は、こんな誓願を残したと伝わります。「毎月半ば十五日間は、必ずこの麻績の故里に帰って衆生を救おう」

つまり、如来は月の半分は飯田にいるから、両方に詣らなければ「片詣り」だという言い伝えなのです。

伝承としてどう読むか

念のため書いておくと、これはあくまで寺に伝わる縁起であり、歴史学的に裏づけられた事実ではありません。善光寺の創建をめぐっては諸説あり、本多善光という人物の実在も含めて確定していないことが多いのです。

ただ、伝承としての面白さは別のところにあります。

長野市の善光寺という巨大な信仰の中心に対して、「もとはこちらにあった」と主張する寺が伊那谷の南の端にある。しかもその主張は否定されるどころか、「片詣り」という形で受け入れられ、両方に詣る習わしとして今日まで続いている。

こういう関係が数百年成立してきたこと自体が、なかなか他に例のない話なのです。

誰に刺さる場所か

元善光寺は、規模でいえば長野の善光寺とは比較になりません。「善光寺のようなスケールを期待して行くと拍子抜けする」というのは、正直なところだと思います。

けれど、縁起や伝承を追いかけるのが好きな人には、かなり面白い場所です。宝物殿には「座光の臼」をはじめ、雪舟筆と伝わる寒山拾得図、釈迦涅槃像など、寺宝約90点が常時展示されています。あの話に出てくる臼が、ちゃんと現物として置いてあるのです。

毎年10月中旬から11月中旬にかけては、境内で菊人形展・菊花展が開かれます。菊花展を目当てに訪れる方も多い時期です。

長野の善光寺まで足を延ばす予定がある方は、ぜひこちらにも。順番はどちらが先でも構いません。四十一年の話を知ってから立つと、境内の静けさが少し違って感じられます。

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