飯田は、紙の町として知られています。力士の髷を結う元結、祝儀袋を飾る水引。どちらも飯田の名とともに語られる産物です。けれど、その紙そのものは、いったいどこで漉かれていたのでしょうか。
答えは、天竜川の東岸にあります。飯田市下久堅(しもひさかた)地区。ここで漉かれた和紙は「ひさかた和紙」と呼ばれ、飯田の紙文化の土台を支えてきました。
この記事では、下久堅という土地そのものに目を向けてみます。なぜ、ここでなければならなかったのか。紙漉きという仕事は、その土地の条件から逃れられない仕事だからです。
天竜川が削った崖と、その下から湧く水
下久堅を歩くと、地面が階段状になっていることに気づきます。河岸段丘です。天竜川が長い時間をかけて土地を削り、削り残された平らな面がいくつも重なっている。この地形が、紙漉きの村を生みました。
段丘と段丘のあいだには、崖ができます。そしてその崖の下からは、地下水が湧き出す。上の段に降った雨が地層を伝って流れ、崖のところで外へ出てくるのです。
和紙づくりにとって、水は原料と同じくらい重要です。鉄分を多く含む水を使えば紙は黄ばみ、濁った水を使えば繊維に不純物が残ります。冷たく澄んだ水でなければ、白く艶のある紙は漉けません。
段丘崖から湧く水は、地層を通り抜けてくるあいだに濾過され、年間を通して水温が安定しています。紙漉きの村がここに生まれたのは、偶然ではなかったわけです。

南に開けた斜面と、乾いた冬の空
漉いた紙は、干さなければ紙になりません。和紙の乾燥は、板に貼りつけて天日にさらすのが古くからのやり方です。つまり、日当たりのよい斜面と、乾いた空気の両方が要ります。
下久堅には南向きの斜面が多く、干し板を並べる場所には困りませんでした。加えて、南信州の冬は内陸性の気候で、晴天が続き、空気がよく乾きます。雪に閉ざされる日本海側の産地とは、条件がまるで違います。

水田の少ない村が、冬に選んだ仕事
紙漉きが冬の仕事とされたのには、こうした理由もありました。水が冷たい季節ほど繊維が締まり、よい紙になる。同じ季節に、乾かす条件も整う。土地と季節が噛み合っていたのです。
さらにもうひとつ、社会の側の事情がありました。
段丘の上というのは、水が乗りにくい土地です。川はすぐそばを流れているのに、その水面は崖のはるか下。水田を大きく広げることは容易ではなく、下久堅の暮らしは畑作を中心に組み立てられていました。
田が少なければ、米作りだけでは実入りが足りません。冬の農閑期に現金を得られる仕事が、どうしても必要になります。
そこに紙漉きがありました。原料の楮(こうぞ)は、南山や遠山といった山手の地域から運び込まれます。水と日照は地元にある。労力を出せば、冬のあいだに紙という商品ができあがる。

自然条件と生活の必要が重なったところに、この村の紙漉きは根を下ろしました。
美濃から招かれた職人と、「晒紙」の誕生
条件が揃っていても、技術がなければ紙は売り物になりません。
宝永5年(1708年)、下久堅の人々は美濃国から稲垣幸八という職人を招きました。美濃といえば、当時すでに全国に名の通った紙の産地です。その技を、この村に持ち込もうとしたわけです。
そこから七年。研究を重ねた末に生まれたのが「晒紙(さらしがみ)」でした。
丈夫で、艶があり、水に強い。ひさかた和紙の評価は、この紙から始まったと伝えられます。招いた職人の技術と、段丘の水という土地の条件。そのどちらが欠けても、この紙は生まれなかったでしょう。
ほとんどの家から、紙を打つ音がしていた
江戸時代の下久堅では、ほとんどの家が紙漉きに関わっていたといいます。
冬になれば、あちこちの家で楮を煮る湯気が立ち、繊維を叩く音が響く。一軒の工房が村を代表するのではなく、村そのものが紙の産地だった、ということです。
こうして漉かれた紙が元結や水引へと姿を変え、飯田の名を全国に広げていきました。その先の物語については、こちらの記事でも触れています。
一度、途切れかけた紙
順調に続いてきたわけではありません。
昭和36年(1961年)、南信州は「三六災害」と呼ばれる大水害に見舞われました。天竜川の流域は各所で崩れ、飯田の周辺にも深い爪痕が残っています。
このとき、楮の畑や紙屋も被害を受け、ひさかた和紙の生産は大きく細ったと伝えられます。原料が採れず、漉く人も減っていく。時代の変化とも重なって、村の紙は一度、途切れかけたといわれます。

それでも完全に消えることはありませんでした。現在は「ひさかた和紙の会」による継承の取り組みが続けられ、下久堅の元結堂南田では、和紙と元結の仕事が今も受け継がれています。
最後に……
なぜ、下久堅でなければならなかったのか。
段丘崖から湧く澄んだ水。南に開けた斜面。乾いた冬の空。水田の少なさゆえに、紙を選んだ人々の暮らし。そして、美濃から招かれた技術。
ひさかた和紙は、そのすべてが重なった場所に生まれた紙でした。土地の条件が、そのまま形になったものだと言っていいと思います。
飯田を訪れる機会があれば、天竜川を渡って東の段丘へ足を延ばしてみてください。崖の下を流れる水の音が、今も聞こえるはずです。


