長野県飯田市の中心部にあった飯田城。江戸時代の後半、およそ二百年にわたってこの城を預かったのが、堀家です。
ところが、堀家の殿様たちの多くは、飯田で生まれたわけでも、飯田に葬られたわけでもありませんでした。生まれも育ちも江戸、亡くなれば江戸の寺へ。そういう殿様のほうが多かったのです。
それでも、明治になって最後の殿様が亡くなったとき、その葬列を見送る人垣は、住まいから菩提寺まで途切れなかったと伝わります。江戸の大名家が、どのようにして飯田の殿様になっていったのか。城下の寺に残る墓と石碑を手がかりに、堀家の二百年をたどります。
十万石の大名が広げた城に、わずか二万石で入る
寛文12年(1672年)、下野国烏山(現在の栃木県那須烏山市)から、堀親昌が2万石で飯田に入りました。堀家は、織田信長と豊臣秀吉の側近として仕えた堀秀政を始祖とする家です。
飯田城と城下町を大きく広げたのは、伊那郡10万石を治めた毛利秀頼と、その跡を継いだ京極高知でした。そのあと小笠原氏が5万石、脇坂氏が5万5000石でこの城に入り、堀家の代で2万石になります。日本大百科全書によれば、堀氏が治めたのは飯田城の周辺の2万石だけでした。十万石の大名のために造られた城と城下町を、二万石の家が引き継いだことになります。
親昌は、着任すると疲れきっていた領民に銭と籾を配り、評判になったといいます。脇坂安元と並ぶ文人の藩主としても知られますが、飯田に入った翌年の寛文13年(1673年)7月、この地で亡くなりました。
小さな藩の台所は、はじめから苦しいものでした。日本大百科全書は、飯田藩の財政が早い時期から御用達の商人に握られていたと記しています。

殿様の墓は、江戸にあった
堀家は、こののち12代にわたって飯田藩主を務めます。長野県南信教育事務所が開いた講座で、講師の青木隆幸氏は、その12人のうち飯田で生まれて飯田で亡くなったのは2人だけで、8人は飯田の外で生まれ、4人は江戸で生まれて江戸で亡くなっていると紹介しています。殿様たちの故郷は、多くの場合、江戸だったのです。
亡くなったあとの行き先も、江戸でした。飯田で亡くなった親昌は、城下の北にある長久寺で荼毘に付され、遺骨は江戸の渋谷にあった祥雲寺に葬られています。
その次の親貞は、幕府の命で越後の高田城の守りについていた最中に亡くなりました。遺体は江戸へ送られる途中で飯田を通り、長久寺で荼毘に付されて、祥雲寺に葬られています。親賢も、大坂城を守る役目の最中に大坂で亡くなり、同じように飯田で荼毘に付されたあと、江戸へ運ばれました。
親賢の時代には、幕府から美濃の岩村城の修理も命じられています。同じころ、藩は財政難のため、飯田の町から毎年千両を借りて台所をまかなっていました。江戸に屋敷を構え、幕府の役目で各地へ出向く。二万石の家にとって、それは軽い負担ではなかったはずです。
親長が、飯田に刻もうとしたもの

この流れに、一度だけ例外が生まれます。延享3年(1746年)、飯田で亡くなった親蔵は、江戸へ送られず、長久寺に葬られました。
なぜ親蔵だけが飯田に葬られたのか。跡を継いだ子の親長は、当時まだ幼く、江戸にいたため事情を知りませんでした。成長してから家臣に尋ねても、わかる者はいなかったといいます。親長は後年、父の墓碑の裏にこう書き添えています。国に先君の墓がなければ、民は畏れ敬うことを知らない。先君をこの地に葬ったことは、国の幸いと言うべきだ、と。
親長は、飯田に堀家の痕跡を残すことに心を砕いた藩主でした。宝暦4年(1754年)には、桜丸の門を建て直しています。のちに「赤門」と呼ばれ、城の建物がすべて取り払われたなかで、ただ一つ城跡に残った門です。
寛政5年(1793年)には、長久寺の墓所に3つの自然石を据えさせました。親昌・親貞・親賢を荼毘に付した場所の目印です。荼毘の跡には、もとは木が植えられていましたが、木は枯れ、地形も変わる。いずれ場所がわからなくなってしまう。石ならば朽ちることはないだろう。碑文にはそうした考えが記されています。

ただし、親長の時代は穏やかなことばかりではありませんでした。宝暦12年(1762年)には、財源を確保するために藩が無理に加入させようとした講に城下の人々が反発し、千人講騒動が起きています。
幕府の中枢へ、そして逼塞
江戸時代の後期、堀家は幕府の政治の中心に近づいていきます。
親寚は、文化11年(1814年)に奏者番となり、寺社奉行、若年寄、御側御用人を経て、老中格にまで進みました。幕府の要職を務めた年月は31年あまりに及び、水野忠邦が進めた天保の改革にも加わっています。この間に7000石の加増も受けました。
けれど、改革が行き詰まって水野が失脚すると、親寚も逼塞を命じられ、1万石の領地を取り上げられます。弘化3年(1846年)、逼塞を解かれた親寚は髪を剃って隠居しました。その年の8月、剃った髪は石棺に納められ、長久寺の墓所に埋められています。

天狗党を通した殿様
親寚の跡を継いだのが、子の親義です。嘉永6年(1853年)に12代将軍徳川家慶の奏者番となり、家定、家茂、慶喜と、4代の将軍すべてに奏者番として仕えました。飯田市の解説によれば、4代の将軍全員に奏者番として仕えた大名は、全国でただ一人です。
安政6年(1859年)、飯田城の本丸に、親義の徳をたたえる石碑が建てられました。観耕亭碑です。文を書いたのは、昌平坂学問所の教官だった儒学者・安積艮斎でした。碑文は、城の外へ出かければ働く農民の邪魔になると考えた親義が、本丸に小さな亭を建て、そこから田畑で働く人々を眺めて楽しんだと伝えています。
元治元年(1864年)11月、水戸藩の尊王攘夷派、天狗党の一行が京都を目指して伊那谷を南へ下ってきました。伊那谷には平田国学を学ぶ人々が多く、それが進路を変えた理由の一つだったともいわれます。
このとき親義は、幕府の講武所奉行という立場にありました。国元の家臣たちは外堀に大砲を据え、城にこもって戦う構えを見せています。しかし親義は天狗党を討たず、領内を通過させました。一行は清内路峠を越えて、中山道へ抜けていきます。
その代償は小さくありませんでした。親義は講武所奉行を解かれ、2000石を減らされます。清内路の関所を預かっていた役人2人は、切腹を命じられました。一方で、飯田の町は戦火に巻き込まれずにすみました。

飯田に帰った殿様
明治元年(1868年)、親義は徳川慶喜の嘆願書の提出に力を貸したことで新政府から警戒され、養子に家督を譲って隠居しました。飯田市の解説によれば、堀氏が幕府寄りの立場にあったことから、明治維新のあと飯田城は徹底的に取り壊されています。
廃藩ののち、かつての藩主たちは東京に住むことになりました。けれど親義は願い出て、旧領内の松尾村に住まいを構えます。そして明治13年(1880年)、この地で67歳の生涯を閉じました。葬儀の日、住まいのあった松尾の久井から長久寺まで、見送る人垣が続いたと伝えられています。<!– 要確認:親義の没年。墓所ページ・墓碑は明治13年(1880)、観耕亭碑ページは(1879)と1878を併記。明治13年=1880年で統一 –>
親義の墓は、長久寺の墓所に建てられました。飯田市の解説によれば、ここに墓碑が残る藩主は親蔵、親民、親義の3人です。ほかの8代の墓は江戸の渋谷にありましたが、いまは明治以降に建てられた墓碑が残るだけだといいます。


本丸の森を望む墓所
長久寺の墓所は、城下町の北の端、段丘を一段上がった高台にあります。墓所のあたりからは、飯田城の本丸跡の森を望むことができます。
その本丸跡には、いま長姫神社が鎮まっています。祭神は「御三霊」と呼ばれる堀秀政・親良・親昌の三人で、境内には観耕亭碑が立っています。親義の徳をたたえた碑は、堀家の祖先をまつる社の庭に残ったことになります。
江戸で生まれ、江戸に葬られる大名家として飯田に来た堀家は、二百年のあいだに、城下の寺に墓を持ち、最後の殿様をこの地で見送られる家になりました。城は取り壊されましたが、墓所と本丸跡は、いまも同じ町のなかで向かい合っています。

【ウェブサイト】
- 飯田市「飯田藩主堀家の墓所」(文化財保護いいだ):堀家の系譜、親昌の入封と荼毘の跡、親貞・親賢の客死と江戸への回葬、親賢の時代の御定借、親蔵の墓碑と親長の碑文、寛政5年の自然石の碑、親寚の経歴と落髪の埋納、親義の松尾移住と葬儀、江戸の菩提寺、墓所から望む本丸跡
- 飯田市「観耕亭碑」(文化財保護いいだ):碑文の内容、撰文の安積艮斎、親義の経歴と4代の将軍の奏者番、天狗党の領内通過と処分、明治元年の隠居
- 飯田市「飯田城の歴史」(文化財保護いいだ):毛利氏・京極氏の城と城下町の拡張、明治維新後の城の破壊
- 飯田市「飯田城桜丸御門(通称赤門)」(文化財保護いいだ):宝暦4年の再建と堀親長
- 長野県南信州地域振興局「赤門について」:宝暦4年の建築、飯田城唯一の遺構
- 長野県南信教育事務所飯田事務所「令和6年度 第2回赤門スクール実施報告」:飯田藩主12人の生まれと没した地(青木隆幸氏の講演)
- コトバンク「飯田藩」(日本大百科全書、藩名・旧国名がわかる事典):歴代の石高、外様大名、堀氏の領有範囲、文人藩主、財政と千人講騒動、親寚の加増と減封、天狗党後の2000石の減封
- 中津川市「水戸天狗党との関わり」(中津川宿):天狗党が伊那谷を進んだ理由の伝え、清内路峠越え
- 文化庁 文化遺産オンライン 美術館・博物館情報「信州 飯田領主 堀侯」(飯田市美術博物館 2010年特別展):長姫神社の祭神「御三霊」
【文献】(飯田市の解説が案内しているもの)
- 『信州飯田領主 堀侯 ―日本を動かした郷土の外様大名―』飯田市美術博物館、2010年
- 千葉拓真「近世における堀家墓所の成立と飯田藩政」『飯田市歴史研究所年報』14号、2016年
- 安藤智重「安積艮斎撰文「観耕亭記」解題並びに訳注」『飯田市美術博物館研究紀要』22号、2012年
- 『飯田城ガイドブック ―飯田城と城下町を探ろう―』飯田市美術博物館、2005年

