飯田城跡を訪ねた人の感想は、たいてい似ています。「思ったより何もなかった」。
無理もありません。天守も櫓も御殿もなく、城跡には小学校と県の合同庁舎と図書館と美術博物館が建っている。石垣も堀も、探そうと思わなければ目に入りません。
けれど、歩く順番を間違えなければ、飯田城はいまもはっきりと形を持っています。段丘の突端に築かれたこの城は、地形そのものが縄張りだからです。
所要はおよそ一時間。段丘の付け根の側から先端へ、城の外側から内側へ向かって歩きます。
出丸から本丸へ、城の外から内へ
飯田城は、南に松川の谷をのぞむ段丘の突端に築かれていました。
飯田市の解説によれば、段丘の先端近くに本丸を置き、その奥に山伏丸、手前の側に二の丸・出丸・桜丸・三の丸を重ねた構えです。
つまり飯田駅のある市街地の側から歩いてくると、手前の曲輪から入って、段丘の先へ向かって進むことになります。かつて城を訪れた人が、外から内へ一段ずつ入っていったのと同じ向きです。
出丸跡:追手町小学校
飯田駅から歩いて15〜20分ほど。城跡の入り口にあたるのが追手町小学校で、ここが出丸の跡です。
出丸は、半円形の堀に囲まれた曲輪でした。「丸馬出(まるうまだし)」と呼ばれる形で、武田氏の城によく見られますが、徳川氏も同じ形を造っており、天正年間の後半に築かれたとみられています。

この学校の前身は、明治5年(1872年)に飯田藩の文武所を改めて開かれた学校です。明治25年(1892年)にこの出丸の地へ校舎を建てて以来、学校はずっとここにあります。現在の校舎は昭和4年(1929年)に建てられた鉄筋コンクリート造で、建物の隅を円く収めた意匠が評価され、国の登録有形文化財になっています。
現役の小学校です。 外から眺めるにとどめ、登下校の時間帯は特に配慮してください。
水の手御門跡:織豊期の石垣
小学校の東側、出丸と二の丸のあいだに、水の手御門の跡と石垣が残っています。
毛利秀頼・京極高知の時代、飯田城には大きな石で石垣が築かれるようになりました。ここに残るのはその一部で、平たい自然石をほとんど加工せずに積み上げる「野面積み(のづらづみ)」です。城跡でまとまった石垣を見られる場所は多くないので、時間を取る価値があります。
桜丸:赤門と、藩政の中心
小学校のすぐ隣、長野県飯田合同庁舎と飯田市中央図書館の建つ一帯が桜丸です。
脇坂安元が養子・安政を迎えるために御殿を建て、多くの桜を植えたことからこの名がついたといわれる曲輪です。堀氏の時代には若殿や隠居の御殿として使われ、安政2年(1855年)の大地震で本丸御殿が壊れてからは、藩主が政治を執る城の中心になりました。
合同庁舎の敷地には、「夫婦桜」と呼ばれるヒガンザクラの古木が立っています。二本の桜が一体になった木で、樹齢はおよそ400年と推定されています。
そして、赤門(桜丸御門)。飯田城に関連する建築のうち、建てられた当時と同じ場所に立っているのは、この門だけです。
門は普段閉じられていますが、外から自由に見られます。番所が門の脇に別の屋根を持って突き出す形は、長野県内でほかに例がありません。鬼瓦に刻まれた堀家の家紋「向梅」も確かめてみてください。ここ数年は、夫婦桜の咲く3月下旬から4月下旬にかけて、門が開かれています。
合同庁舎と図書館は現役の施設です。 利用する方の妨げにならないよう配慮を。

二の丸:飯田市美術博物館
桜丸の東が二の丸で、現在は平成元年(1989年)に開館した飯田市美術博物館が建っています。
敷地には「安富桜(やすとみざくら)」と呼ばれるエドヒガンの巨木があります。市内でもっとも大きな桜で、長野県の天然記念物。名前は、ここが飯田藩の家老・安富家の屋敷跡にあたることに由来します。赤門が建てられたとき、それまで桜丸の正門だった門は、この安富家の屋敷へ移されました。その門はいま、市内の経蔵寺で山門になっています。

博物館のまわりには、御用水の跡や二の丸御門の跡を示す案内が設けられ、本丸とのあいだの堀跡へ降りられる場所もあります。堀の底に立つと、両側の曲輪の高さが実感できる。飯田城で「城にいる」という感覚がいちばん強く得られるのは、たぶんここです。
なお、二の丸の正門だった八間門は、いまは松尾久井の民家に移されて残っています。
[→ 記事③「城は消えても、門は町に残った」]
本丸:長姫神社と観耕亭碑
二の丸のさらに奥、段丘の先端近くが本丸で、長姫神社が建っています。美術博物館の駐車場も本丸にかかっており、発掘調査では石組みの御用水と、それより古い大きな建物の跡が見つかりました。市の解説は、この建物を武田氏か徳川氏の時代のものとみています。
境内に立つ観耕亭碑(かんこうていひ)は、安政6年(1859年)に建てられた石碑で、飯田市の史跡です。
碑文によれば、藩主・堀親義は、城の外へ出て山や川を眺めるのを楽しみにしていました。けれど出かければ、田畑で働く人々の手を止めさせてしまう。そこで本丸に小さな亭を建て、そこから農作業のようすを眺めることにした。その亭が「観耕亭」です。撰文は江戸の儒学者・安積艮斎(あさかごんさい)。廃藩のわずか十数年前に建てられた碑です。
本丸の先で、段丘は切れ落ちています。碑文が描く眺めは、すぐ下を流れる松川と田畑、その向こうに連なる山並みでした。城がここに築かれた理由と、藩主がここから見ていたものが、同じ場所に重なっています。

山伏丸:城になる前の記憶
本丸のさらに奥、段丘の突端にあたる部分が山伏丸と呼ばれます。
飯田城が築かれる前、この場所は修験者の行場だったと伝えられており、曲輪の名はその名残だといわれます。城として整備され、城主が何度も入れ替わり、やがて城そのものが取り払われてもなお、名前だけが最初の記憶をとどめている。 <!– 要確認:山伏丸跡の現況(私有地の有無・立ち入りの可否) –>
[→ 記事⑦「山伏丸と修験の前史」(近日公開)]
歩くときの実務情報
- 所要時間:城跡だけなら45分ほど。じっくり回るなら一時間あまりを目安にしてください。
- アクセス:JR飯田線・飯田駅から赤門まで徒歩15分ほど。市内循環バスの「県合同庁舎前」で降りれば、赤門まで2分ほどです。
- 赤門の開門:ここ数年は、3月下旬から4月下旬にかけて開かれています。日程は長野県南信州地域振興局が毎年発表しています。
- 資料:飯田市美術博物館が刊行した『飯田城ガイドブック ―飯田城と城下町を探ろう―』(2005年)が、城と城下町を詳しく解説しています。散策のモデルコースも載っており、現地を歩くならこれが最良の一冊です。飯田市立図書館で閲覧できます。
注意:城跡は学校・官庁・図書館・博物館・神社として、いまも使われている場所です。見学は、利用者や近隣の方への配慮が前提になります。
歩き終えて
飯田城跡には、確かに「城らしいもの」は多くありません。
けれど出丸から本丸まで歩いてみると、曲輪をひとつ越えるたびに城の奥へ入っていき、最後は崖で終わる。その一続きの感覚は、案内板を読むだけでは得られないものです。城の建物は消えましたが、城が城であった理由、つまりこの地形は、四百年たってもここにあります。

【ウェブサイト】
- 飯田市「飯田城の歴史」(文化財保護いいだ):曲輪の配置、出丸(丸馬出)の形と年代、水の手御門の石垣、本丸・二の丸の発掘調査
- 飯田市「飯田市立追手町小学校校舎」:学校の沿革と校舎の意匠、登録有形文化財
- 飯田市「飯田城桜丸御門(通称赤門)」:桜丸の由来と役割、赤門の番所と家紋、アクセス
- 長野県南信州地域振興局「飯田城桜丸御門(赤門)を開門します!!」(2026年3月26日発表):開門期間、夫婦桜
- 飯田市「長姫のエドヒガン」:安富桜と家老安富家の屋敷跡
- 飯田市「経蔵寺山門」:桜丸の旧正門が安富家へ移された経緯
- 飯田市「観耕亭碑」:碑文の内容と訳、撰文者、堀親義
- 飯田市「旧飯田城の八間門」:二の丸の正門の移築先
- 長野県観光機構「飯田城跡」(Go NAGANO):美術博物館の開館年
【文献】
- 『飯田城ガイドブック ―飯田城と城下町を探ろう―』飯田市美術博物館、2005年
- 安藤智重「安積艮斎撰文『観耕亭記』解題並びに訳注」『飯田市美術博物館研究紀要』第22号、2012年

