なぜ、あの赤門だけが生き残ったのか│飯田城桜丸御門

長野県飯田合同庁舎の敷地に、赤い門が建っています。

飯田城桜丸御門。弁柄(べんがら)で赤く塗られていることから、通称は赤門。飯田城に関連する建築のうち、建てられた当時と同じ場所に立ち続けているのはこの門だけです。

城の建物は明治の初めにほとんどが壊されました。ほかの門は払い下げられて民家や寺へ運ばれ、それぞれの場所で生き延びています。では、なぜこの門だけが動かずにすんだのか。

理由は一つではありませんでした。

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今では貴重な赤門

そもそも城門を赤く塗るのは、当たり前のことではありません。

赤門は、大名に嫁いだ将軍家の娘の敬称「御守殿(ごしゅでん)」のために許された、特別な門とされます。しかも火事などで焼けても建て替えが許されなかったため、全国を見渡してもほとんど残っていません。

寺社の朱塗りの門を除き、城門に限れば、飯田城の赤門のほかには、東京大学の赤門(旧加賀藩主前田家上屋敷の御守殿門)、和歌山城の追廻門、名古屋城三の丸清水口の赤門(現在は泰岳寺へ移築)などが知られる程度です。

ここで一つ、疑問が出てきます。飯田藩の堀家に、将軍家の娘が嫁いだ形跡はありません。では、なぜ飯田城の門は赤いのでしょうか。

飯田城の門が赤い理由(わけ)

飯田市の解説によれば、これには諸説あります。

有力とされるのは、藩主・堀親長が柳沢家から正室を迎えるにあたって許された、という説です。柳沢家は五代将軍徳川綱吉の側用人を務めた柳沢吉保の家で、一般の大名の位が五位であったのに対し、四位という高い位を持っていました。親長の正室が柳沢吉里(吉保の子)の娘であることは系譜類からも確かめられ、親長が家督を継いだのは延享3年(1746年)、門の再建は宝暦4年(1754年)ですから、時期の上でも矛盾はありません。

もう一つ、のちに幕府の要職を歴任した堀親寚(ちかしげ)が、従四位下という高い位にあったからだ、とする説も伝えられています。親寚は親長の五男で、のちに老中にまで進んだ人物です。ただ、親寚が生まれたのは天明6年(1786年)で、門が再建された宝暦4年より三十年以上あとのことです。この説を取るなら、門が赤く塗られた時期を、再建のときよりのちに考えることになります。

将軍家の娘ではなく、将軍の側近の家から嫁を迎えたことで、格式ある赤い門が許された。二万石の小藩の城に赤門が建った理由として、この説はよく筋が通っています。

建物としての、際立った個性

赤門は宝暦3年(1753年)8月に工事がはじまり、翌宝暦4年(1754年)に完成しました。間口の中央を出入口とする三間一戸(さんげんいっこ)の入母屋造で、桁行4間(約7.3m)、梁間3間(約4.28m)。

屋根の鬼瓦に刻まれた梅の文様「向梅(むこううめ)」は、藩主堀家の家紋です。

この門には、ほかにあまり例のない特徴が二つあります。

一つは、番所の位置です。門番の詰所は、ふつう門の脇の内側に設けられます。ところが赤門では、正面に向かって左に、番所が門の外へ突き出し、しかも別の屋根を持って付属している。この形は長野県内に例がありません。

もう一つは、梁を門の前後へ持ち出し、そこに腰壁を築いて屋根を載せるという構造です。これも独特の形式とされます。

側面は、右側が横板張り、左側は吹き通し。いずれも上部は白い漆喰塗りで、弁柄の赤と漆喰の白の対比が際立ちます。派手ではないのに、遠くからでもそれとわかる門です。

なお、この門が建てられる際、それまで桜丸の正門だった門は城内から出され、家老の安富家へ移されました。その門はのちに経蔵寺(飯田市上郷別府)の山門となり、いまも残っています。赤門には、席を譲った前任者がいるということです。

[関連記事③「城は消えても、門は町に残った」]

役所の門であり続けた百年

さて、最初の問いに戻ります。なぜこの門だけが動かなかったのか。

答えは、拍子抜けするほど実際的です。使い道があったからです。

明治維新のあと、飯田城の建物はほとんどが取り壊されましたが、赤門は残されました。まず飯田県の正門となり、以後、筑摩県飯田支所、下伊那郡役所と、ここに置かれる役所の名前は何度も変わりましたが、正門はずっと赤門でした。大正13年(1924年)には長野県に寄付され、下伊那地方事務所の正門として使われ続けます。

役目を終えたのは、昭和46年(1971年)です。長野県飯田合同庁舎が建てられ、通用門としての役割がなくなりました。

つまり赤門は、「貴重な城の遺構だから」残されたのではありません。役所の門として、百年にわたって現役で使われ続けたから、そこにあり続けたのです。

歴史的な建物は、しばしばこういう残り方をします。守ろうとして守られたものより、使われ続けたもののほうが生き残る。八間門が民家の門になり、ほかの二つが寺の山門になったのも、同じ理屈でした。役割を与えられた建物は、壊されません。

赤門が飯田市の有形文化財に指定されたのは、昭和60年(1985年)11月20日。通用門の役目を終えてから14年後のことです。守られる立場になったのは、意外なほど最近なのです。

春のひと月だけ、開く門

現在、赤門はふだん閉じられています。

ただし毎年春、合同庁舎の敷地に立つ「夫婦桜」の咲くころに合わせて、門が開かれます。ここ数年は、3月下旬から4月下旬までのおよそ一か月です。夫婦桜は二本のヒガンザクラが一体になった古木で、樹齢はおよそ400年と推定され、桜丸の名を思わせる木とされています。

その期間中の一日、入学式を終えた追手町小学校の新入生たちが、この門を通り抜けます。近年は、門出を祝って子ども獅子舞の奉納も行われています。

かつて藩主が通り、役所に勤める人々が通った門を、いまは六歳の子どもたちが春にくぐっていく。城の門としての仕事も、役所の門としての仕事も終えたあとで、この門はまだ役割を持っています。

見学は自由ですが、下伊那地方事務所(南信州地域振興局)と飯田市中央図書館を利用する方への配慮をお願いします。ここはいまも、人が働き、人が本を借りに来る場所です。

[関連記事⑩「堀家十二代・二百年の飯田藩」(近日公開)]


参考資料

【ウェブサイト】

  • 飯田市「飯田城桜丸御門(通称赤門)」(文化財保護いいだ): 赤門の由来と諸説、構造・規模、番所と梁の形式、旧正門の移築、明治以降の用途、文化財指定、城門の赤門の例
  • 長野県南信州地域振興局「赤門について」: 番所の位置、長野県への寄付(大正13年)
  • 長野県南信州地域振興局「飯田城桜丸御門(赤門)を開門します!!」(2026年3月26日発表): 開門期間、新入生の通り抜けと獅子舞の奉納、夫婦桜
  • 同(2025年・2024年の発表): 例年の開門時期
  • 飯田市「経蔵寺山門」: 赤門以前の桜丸の門
  • Wikipedia「堀親長」: 親長の家督相続年、正室(柳沢吉里の娘)。典拠は鈴川博「菱田春草先祖の才能と堀飯田藩仕官の歴史的背景」『飯田市美術博物館研究紀要』第22巻(2012年)
  • コトバンク「堀親寚」(日本人名大辞典+Plus):親寚の生年と出自、寺社奉行・若年寄を経て老中格に進んだこと

【文献】

  • 『飯田市指定有形文化財 飯田合同庁舎赤門修理工事報告書』長野県下伊那地方事務所、2011年
  • 『飯田城ガイドブック ―飯田城と城下町を探ろう―』飯田市美術博物館、2005年

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