坂西氏とは何者だったのか|文書を失った一族を、他家の記録からたどる

飯田城の歴史をひもとくと、最初に出てくるのが坂西(ばんざい)氏の名です。室町時代に飯田の郷を治め、この地に城を構えたといわれる一族です。

ところが、この一族について確かに言えることは、驚くほど多くありません。どこから来たのか。いつ城を築いたのか。歴代の当主は誰だったのか。どれも、はっきりしないままです。

わからない理由のほうは、はっきりしています。坂西氏は天正10年(1582年)に滅び、家に伝わった文書が残らなかったのです。それでも、坂西氏の名がすっかり消えたわけではありません。合戦の物語に、関東の陣中に、神社の記録に。ほかの家や寺社が書き残したもののなかに、その名は点々と残っています。その点を、年代の順に拾っていきます。

目次

二つの来歴と、同時代の記録

坂西氏の出自には、二つの説があります。信濃守護・小笠原氏の一族とする説と、阿波国(現在の徳島県)出身の近藤氏の一族とする説です。

どちらも、江戸時代に書かれた地誌にさかのぼります。『伊那温知集』は、小笠原貞宗の三男・宗満を初代とし、貞和年間(1345〜1350年)に城を築いたと記します。『信陽城主得替記』は、阿波国坂西の近藤周家が源頼朝の命で飯田の地頭となり、建久6年(1195年)に館を構えたと伝えます。二つの地誌がともに城の始まりを山伏の行場との取り替えに結びつけていることは、記事⑦で取り上げました。

ここで目を向けたいのは、地誌ではなく、坂西氏と同じ時代に書かれた記録のほうです。飯田市の解説によれば、信頼できる当時の史料では、鎌倉時代から室町時代の初めごろまで、飯田郷の地頭は鎌倉御家人の阿曽沼(あそぬま)氏でした。頼朝の時代から坂西氏が地頭だったという話は、同時代の記録が伝える姿とは合いません。

では、同時代の記録のなかで、坂西氏はいつ、どんな姿で現れるのでしょうか。

大塔の古要害に散った坂西長国

飯田市の解説が挙げるなかで、坂西の名が見えるもっとも古い例は、応永7年(1400年)、現在の長野市南部で起きた大塔合戦を描いた『大塔物語』です。

この年、信濃守護に任じられた小笠原長秀は、善光寺に入って国内の武士たちを呼び集め、守護としての支配を強く打ち出しました。反発した国人たちは一揆を結んで兵を挙げ、守護方と善光寺平の南で激突します。

敗れた長秀の本隊は塩崎城へ逃れましたが、連絡を断たれた一隊は、近くの古い砦「大塔の古要害」に立てこもりました。長野市立博物館の解説によれば、一隊は包囲されたまま二十日あまり孤立し、ついに力尽きて、坂西長国以下三百余人が討死したといいます。物語には、長国を慕っていた遊女たちが、その死後に善光寺へ詣でて菩提を弔う場面もあります。

『大塔物語』は室町時代の中ごろに書かれた軍記物語で、すべてが事実そのままとはかぎりません。長国が飯田の坂西氏のなかでどんな立場にあったのかも、物語からはわかりません。少なくとも物語が書かれたころ、坂西の名は、守護小笠原氏の側で戦って散った武士の名として語られていたことになります。

応永7年の晩秋、大塔の古要害に立てこもる守護方の一隊

結城の陣と、諏訪の祭り

確かな史料に坂西氏が現れるのは、それから四十年ほど後のことです。

永享12年(1440年)、下総(現在の茨城県)の結城氏が、滅ぼされた鎌倉公方の遺児を擁して幕府に背き、結城合戦が起こります。幕府は諸国の軍勢を差し向け、信濃からは守護・小笠原政康が信濃の武士たちを率いて出陣しました。飯田市の解説は、この関東の合戦への登場を、坂西氏が当時の史料に現れる最初の例として挙げています。

宝徳4年(1452年)からは、諏訪大社の記録にもたびたび名が見えるようになります。中世の諏訪大社は戦の神として武家の信仰を集め、信濃国内をはじめ近隣の武士たちが祭りに奉仕していました。飯田市の解説は、こうした記録への登場から、室町時代の中ごろには坂西氏が飯田の郷主となっていたとみています。

ここまでを並べると、坂西氏の名はいつも守護・小笠原氏の近くに現れます。大塔では長秀の側で戦い、結城合戦で信濃の軍勢を率いたのは政康でした。坂西氏を小笠原氏の一族とする説の背景には、こうした近さの記憶があったのかもしれません。

室町時代、諏訪大社の祭りに奉仕する伊那の武士たち

風越山に残った「源政満」

他家の記録とは別に、坂西氏自身の手になると考えられるものが、いまも残っています。飯田の西にそびえる風越山の山頂近くに建つ、白山社の奥社本殿です。

永正6年(1509年)に建てられたこの本殿について、飯田市は、当時飯田郷を治めていた坂西氏が建てたものとみています。手がかりは、江戸時代に書き写された鰐口の銘文です。そこには永正8年(1511年)の年紀とともに、「大旦那源政満」という名が記されていました。坂西氏は源氏の小笠原氏の一族ともいわれることから、政満は坂西氏の有力者だったとみられています。

この銘文も、江戸時代の写しを通して伝わったものです。坂西氏の手になると考えられるもので、いまも目にできるのは、文書ではなく、標高1,500メートル近い山頂に建つ一棟の社殿です。

小笠原に敗れ、武田のもとで終わる

戦国時代に入ると、坂西氏の名は、武田氏をめぐる記録や江戸時代の歴史書に現れるようになります。

天文23年(1554年)に甲斐の武田氏が下伊那を支配下に置いたあとも、しばらくは坂西氏が飯田城主だったようです。ところが永禄5年(1562年)、坂西長忠の兵が、松尾(現在の飯田市松尾)の小笠原信嶺の所領を侵す事件が起こります。信嶺の家臣・清水但馬入道が先鋒となってこれを討ち、信嶺はその功に土地を与えました。このとき長忠自身がどうなったかは、はっきりしません。飯田市の解説は小笠原氏に討ち取られたとしていますが、木曽へ追われたとする説もあります。江戸時代の歴史書は、このあと武田家の重臣・秋山虎繁が城代として飯田城に入ったと伝えています。

元亀4年(1573年)、秋山虎繁が美濃の岩村城へ移ると、飯田城には長忠の弟・織部亮(おりべのすけ)が入りました。しかし天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田方が大敗した直後、武田氏は坂西氏の離反を理由に、多くの者を処刑しています。

そして天正10年(1582年)2月14日、織田軍の先陣が伊那谷へ入ります。飯田城を守っていた坂西織部と保科正直は、その日の夜のうちに城を捨てて退きました。坂西氏が滅んだのは、この年のことです。

記録の空白を埋めたもの

並べてみると、坂西氏の足跡は少し不思議な形をしています。物語のなかの最初の姿は、守護小笠原氏のために散った武士でした。そして終わりに近いころ、当主の長忠は小笠原氏との争いに敗れ、飯田城を失っています。記録のうえでは、小笠原氏の近くに現れ、小笠原氏との争いのなかで傾いていった一族ということになります。

一族が滅び、家の文書が失われたあと、その来歴を語ったのは江戸時代の地誌でした。一方は信濃守護・小笠原貞宗の三男を初代に据え、もう一方は源頼朝の命を受けた地頭にまでさかのぼらせています。同時代の記録が残していたのは室町時代からの断片だけで、その前の空白を、後の世の人々がそれぞれの由緒で埋めたと考えることもできます。

飯田城の歴史は、坂西氏から語りはじめられます。けれど、その最初の城主について手がかりになるのは、ほかの家や寺社が書き残した数行と、風越山の山頂に建つ一棟の社殿くらいしかありません。


参考資料

【ウェブサイト】

  • 飯田市「飯田城の歴史」(文化財保護いいだ):坂西氏の出自の二説、地誌にみる初代と築城の伝え、阿曽沼氏の地頭職、当時の史料にみえる坂西氏、長忠の事件から天正10年の退却まで
  • 飯田市「白山社奥社本殿」(文化財保護いいだ):本殿の建立年、鰐口銘の源政満と坂西氏
  • 長野県立歴史館「信濃史料 巻十二 目次」(ADEAC):永禄5年9月16日条の綱文、坂西長忠の兵と小笠原信嶺の家臣清水但馬入道
  • 長野市立博物館 収蔵品データベース「大塔物語」:大塔合戦の経過、大塔の古要害での坂西長国らの討死
  • 信州地域史料アーカイブ「『曽我物語』『大塔物語』と善光寺」(PDF):坂西長国を慕う遊女と善光寺の場面

【文献】

  • 『飯田城ガイドブック ―飯田城と城下町を探ろう―』飯田市美術博物館、2005年(飯田市の解説が案内しているもの)
  • 『飯田・上飯田の歴史』上、飯田市教育委員会、2012年(同上)
  • 『新編信濃史料叢書』第2巻、信濃史料刊行会、1972年(「大塔物語」を収録)
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