焼け跡に、中学生がりんごを植えた│飯田のまちが選んだ復興のかたち

長野県飯田市の中心部に、りんごの木が並ぶ通りがあります。

400メートルあまりにわたって、春には白い花が咲き、秋には赤い実がなる。市のシンボルとして、観光ガイドにもたいてい載っています。

ただ、なぜ街のど真ん中にりんご畑のような通りがあるのか。その理由まで書いてある案内は、意外と多くありません。

昭和22年4月20日、正午前

飯田は、京都の町割にならってつくられた城下町でした。細かい格子状に長屋が整然と並び、「信州の小京都」と呼ばれるほど美しい町並みだったといいます。

けれどその美しさは、道幅の狭さと木造建築の密集と表裏一体でした。飯田はそれまでにも何度も火災に見舞われており、前年の昭和21年にも約200棟を焼く火事が起きていました。

そして昭和22年(1947年)4月20日、午前11時48分頃。扇町付近の民家から出火します。

乾燥した空気と風速4メートルの風。火は瞬く間に広がりました。さらに悪いことに、パニックに陥った市民が火災現場から遠い場所でも一斉に消火栓を開いたため、水圧が低下し、消防はほとんど機能しませんでした。

焼失面積73ヘクタール。市街地のおよそ4分の3。罹災者は17,800人で、当時の市の人口の半分を超えます。この焼失面積は、いまも戦後の日本で最大の記録です。

「もう一度、燃やさない」ための設計

翌年から復興が始まります。

長野県の土木部が入り、区画整理を含む都市計画案が作成されました。柱は幅の広い防火帯道路。市の中心で2本を交差させ、町を4分割する。万が一また大火が起きても、4分の1で食い止められるようにという発想です。

(完成間近になってGHQからさらなる道路幅の拡張を指示され、市長と市議会長が陳情して修正案を通した、という一幕もありました。)

しかし、区画整理が終わったあとに残った反省がありました。大火のとき、避難する道も、消防が入る道もなかった、と。

そこで生まれたのが「裏界線(りかいせん)」です。

各戸の裏側――街区の中央にあたる部分を、住民が2メートルずつ提供し合って通した避難用の路地。全長は合計でおよそ4,700メートルに及びます。

これは飯田市特有のもので、他の街にはありません。表通りの華やかさの裏側に、細い路地が網の目のように走っている。路地裏好きにはたまらない場所ですが、その正体は「二度と逃げ場を失わないため」の設計なのです。

中学生からの提案

防火帯道路には、中央に緑地帯が設けられました。

ここに何を植えるか。提案したのは、飯田市立飯田東中学校の生徒たちでした。昭和27年(1952年)のことです。

「自分たちの手で美しい街をつくろう」。数回にわたる市との交渉の末、昭和28年(1953年)、生徒たちは自らりんごの苗木を植えました。

驚くのはその後です。植えて終わりではなく、現在に至るまで代々の東中生が管理を続けている。施肥、剪定、草取り、収穫。すべて生徒の仕事です。

収穫したりんごは、生徒自身が給食で食べるほか、市内の小中学校や福祉施設に無償で配られます。東日本大震災の被災地に贈られたこともありました。

もちろん苦労もあります。植樹後まもなくから現在まで、収穫前の実がたびたび盗まれてきました。それでも70年以上、この作業は途切れていません。

この取り組みは全国に伝わり、東中には激励や義援金が寄せられ、札幌市や浜松市にもりんご並木が生まれるきっかけになりました。平成11年(1999年)には、中学生を含む地域住民のワークショップを通じて並木全体が公園として再整備され、現在の姿になっています。

誰に刺さる場所か

正直に書いておくと、りんご並木は「絶景」ではありません。

期待して行くと、「街路樹にりんごがなっているだけでは?」と感じる方もいると思います。実際、並木通り全体1キロのうち、りんごの区間は450メートルほどです。

けれど、まちづくりや都市計画に関心のある人には、これ以上ないほど面白い場所です。防火帯道路の真ん中に、後から中学生が自主的に植えた並木。同じ例は、おそらく他にありません。

そして裏界線とセットで歩くと、見え方が変わります。表通りのりんごの木と、裏手の細い路地。どちらも同じ日の火事から生まれたものだと知っていると、この街は「復興のかたちを自分たちで決めた街」として立ち上がってきます。

秋、赤い実がなる頃が一番わかりやすい季節です。