天竜川がゆるやかに削った河岸段丘の上に、その町はあります。長野県下伊那郡高森町(たかもりまち)。東に南アルプス、西に中央アルプスを望み、町の東西でずいぶんと標高が違う――そんな地形が、この町にふたつの宝物をもたらしました。
ひとつは、南信州の秋を代表する干し柿「市田柿」。もうひとつは、900年ものあいだ鳴りやまない祭りの太鼓です。
「市田柿」という名の由来は、高森町にあった
スーパーの棚に並ぶ「市田柿」。あの名前が、実は地名だとご存じでしょうか。
高森町の市田地区(旧・市田村)で栽培されていた在来の渋柿。それが「市田柿」の名の由来です。渋柿そのものの栽培は500年以上とも600年以上ともいわれ、この谷ではずいぶん昔から柿が実っていました。
ただ、江戸時代の飯田下伊那を代表する柿は、実は「立石柿」のほうでした。転機は、下市田村(現・高森町下市田)の伊勢社の境内にあった一本の古木です。「焼いて食べても美味しい」と評判で「焼柿」と呼ばれたこの木に目をつけたのが、伊勢屋敷に暮らしていた寺子屋の師匠・児島礼順。彼が柿を育て食べることを奨励し、接ぎ木によって村じゅうへ、やがて村の外へと広がっていきました。
その後、「市田柿」の名で出荷が始まったのは大正10年(1921年)のこと。そこから数えても、すでに100年を超える歴史です。
そして2006年、長野県で初めての地域団体商標として登録されました。
朝霧が、甘さを結晶に変える
ところで、市田柿はどうしてあれほどに甘いのでしょうか。
答えは、天竜川から立ちのぼる朝霧と、全国有数といわれる長い日照時間にあります。冷たい霧に包まれた朝と、よく晴れた昼。この寒暖の繰り返しが、柿の中の糖分をゆっくりと表面へ押し上げ、白い粉となって結晶化させるのです。あめ色の果肉を包む白い「柿霜」は、谷の気候そのものから生まれた自然の甘さ。人工的な技術や機械では、決して真似ができない美味しさなのです。
いまは食品衛生上の理由から屋内の乾燥室に吊るすのが一般的になり、昔ながらの「柿すだれ」の風景はめっきり減りました。それでも建物の窓越しにオレンジ色の簾が垣間見えると、「ああ秋が来たなあ」を実感すると土地の人は言います。
900年前から起きつづける、獅子
高森町大島山の瑠璃寺(るりじ)は、天永3年(1112年)の創建と伝わる天台宗の古刹です。比叡山竹林院の観誉僧都が東国教化のためこの地を訪れたのが始まりとされ、以来、比叡山につらなる法脈を守ってきました。源頼朝が寺領を寄進し、祈願所としたとも伝わります。
大島山の獅子舞
実は瑠璃寺には、とても特徴的な獅子舞があるんです。「大島山の獅子舞」と呼ばれています。
長野県指定無形民俗文化財。信州各地で見られるのは頭にかぶって舞う大神楽獅子ですが、こちらは幌をかけた大きな屋台がまるごと獅子の胴体になり、その中に大太鼓・小太鼓・笛衆が大勢入って楽を奏でる。前についた巨大な獅子頭が、その音とともに練り舞う「屋台獅子」です。
寺が創建された1112年に、比叡山延暦寺の日吉大社から獅子舞を迎え入れたことが始まりと伝えられ、当時の獅子舞はいったん衰退したものの1735年に復活。その後大型化し、瑠璃寺の大きな獅子が人気を集めて、南信州じゅうに屋台獅子が広がったとされます。飯田下伊那地域周辺のおよそ50か所に伝承されており、南信州で見かける屋台獅子は、みなこの寺の獅子を源流としているのです。
見どころは、獅子をあやつる「宇天王(うてんのう)」の所作。舞楽から来たといわれる優雅な動きで、地面に頭を据えて眠っていた獅子を起こし、暴れる獅子を鎮める。まわりでは猿がおどけた身振りで見物人を整理し、女鬼と男鬼が突然飛び出す。荒々しさと雅さが同居する、不思議な祭りです。
奉納は毎年4月の第2日曜日。ちょうど境内の桜が満開を迎える頃で、源頼朝公から寄進されたと言われている桜のもと、900年前と同じ太鼓が谷に響きます。

最後に……
町名の由来は、本高森山。1957年(昭和32年)に市田村と山吹村が合併したとき、両村の境になっていた山の名をとりました。ふたつの村がひとつになって、まだ70年ほどの若い町です。
けれどその足元には、500年前の柿の木と、900年前の獅子の音が層をなして眠っている。南アルプスを望む段丘の上で、高森町は今日も静かに、その甘さと音を守り続けています。