長野県で、いちばん人口の少ない村。
そう聞くと、なんだか心細い場所を思い浮かべてしまうかもしれません。けれど平谷村(ひらやむら)を訪ねてみると、印象はまるで逆です。国道153号がまっすぐに村を貫き、道の駅には車が絶えず出入りし、夏にはひまわりが一面に咲く。
小さいのに、風通しがいい。その理由は、この村がずっと「通り道」であり続けてきたことにあります。
標高920メートルの、まっ平らな場所
平谷村は長野県の南西端、岐阜県と接する位置にあります。総面積77.37平方キロメートルのうち、実に96.7%が山林。標高1,500メートル前後の山々にぐるりと囲まれ、その真ん中に標高およそ920メートルの平坦地がぽっかりと広がっています。
古くは「比良屋」と書かれたそうです。山の中の、平らな場所。地名がそのまま地形を語っています。
人口はおよそ380〜400人。長野県下で最も人口の少ない村として知られていますが、村を歩いていて感じるのは寂しさよりも、むしろ手の届く距離感のほうです。
信玄がつくり、中馬が育てた道
この村の性格を決めたのは、一本の道でした。
戦国時代、武田信玄は三河へ進出するための軍用道路として伊那街道を整備し、その沿道に平谷宿を置きます。軍事のための道は、やがて暮らしの道へと姿を変えました。
江戸時代、平谷は天領として飯島代官所の支配下に入り、信州と三河を結ぶ三州街道の宿場町として栄えます。ここを行き来したのが「中馬(ちゅうま)」──馬の背に荷を積んで運ぶ、信州独特の輸送のしくみです。三河からは塩や海産物が、信州からは煙草や紙が。峠を越えてきた馬と馬方たちが、この平らな土地で一息ついたのです。
村の中心に人が集まる構造は、このときに出来上がりました。

鉄道が来なかった村
ところが昭和の初め、状況が一変します。天竜川沿いに三信鉄道(現在のJR飯田線)が開通したのです。
人と荷物の流れは鉄路へ移り、街道の宿場は役目を終えました。線路の通らなかった平谷村は「陸の孤島」と呼ばれるようになります。
さらに面白いのは、村そのものの成り立ちです。明治22年に波合村として発足したこの一帯は、昭和9年(1934年)に分割され、大字平谷の区域が平谷村として独立しました。もう一方の浪合は、のちに阿智村の一部となります。ひとつだった村が、ふたつの道を歩き始めた瞬間でした。
そして、ひまわりが咲く
時代が下り、道はふたたび主役になります。かつての三州街道は国道153号として生まれ変わり、中京圏から信州へ向かう人々が通り抜けていく道になりました。
村の中心には道の駅「信州平谷」。併設された信州平谷温泉「ひまわりの湯」は、ナトリウム炭酸水素塩泉(重曹泉)、pH8.59のアルカリ性で、湯上がりに肌がすべすべになると評判の「美人の湯」です。広々とした庭園露天風呂に浸かって山を眺めていると、峠を越えてきた昔の馬方も、こんなふうに息をついたのだろうかと思えてきます。
夏には、道の駅の周囲一面がひまわりで埋まります。これは自然に咲いたものではなく、村の人たちが毎年手をかけて育てているもの。ほかにも平谷湖でのフィッシング、冬のスキー場と、小さな村にしては驚くほど遊び場が多い。
「観光立村」を掲げてきた村の、意地のようなものを感じます。
最後に……
人口最少の村。過疎の村。数字だけを並べれば、そう分類されてしまう場所かもしれません。
けれど平谷村は、500年近く「通り道」であり続けることを選んできた村です。信玄の軍用道路が中馬の街道になり、街道が国道になり、その道端に今、ひまわりが咲いている。
峠の途中で車を停めて、ひと風呂浴びていく。それがこの村への、いちばん正しい訪ね方かもしれません。