花道は、村人がつくる│下條村の300年と「奇跡」の正体

長野県下伊那郡下條村(しもじょうむら)。面積38.12平方キロメートル、県内77市町村のうち4番目に小さな村です。飯田市から車で20分。天竜川の右岸、下條山脈の東麓に、集落が段々と重なっています。

この村には、まるで性格の違うふたつの「有名」があります。ひとつは300年続く農村歌舞伎。もうひとつは、全国の自治体関係者から「奇跡の村」と呼ばれた少子化対策です。

一見、何の関係もなさそうなこの二つ。けれど掘っていくと、同じ一本の芯につながっていました。

村の名は、殿様の名前

まず、村の名前から。「下條」とは、室町時代のはじめに甲斐国からこの地に入った豪族・下條氏に由来します。甲斐源氏小笠原氏の分流にあたる一族です。

初代・下條頼氏が観応年間(1350年頃)にこの地方を治め、いったん5代で血筋が絶えたものの、信濃守護職・小笠原政康の三男である康氏を養子に迎えて再興。この6代康氏が文明7年(1475年)に築いたのが吉岡城でした。周囲を深い谷と急崖が囲む、天然の要害です。

続く7代・家氏は、文武に長けた人物でした。京都方面から宮大工、仏師、軍師といった文化人を招き、この山あいの地に文化の灯をともします。式内社・大山田神社と古城八幡社に現存する室町様式の社殿四棟が国の重要文化財に指定されているのは、この時代の遺産です。

9代・信氏は武田信玄の妹を妻に迎え、武田軍の伊那先方衆として三河方面で戦功を挙げました。しかし織田信長に追われて三河へ逃れ、徳川家康を頼って再起。ふたたび吉岡城主となるものの、天正15年(1587年)、12代・牛千代の代に改易となり、下條氏は吉岡を去ります。

約110年。城下町の面影は、今も吉岡の集落に残っています。

名古屋から来た太夫が、村に残したもの

下條氏が去ってから130年ほどのち。享保4年(1719年)9月、名古屋から一人の太夫がやって来て、吉岡で芝居の興行を打ちました。

これが、下條歌舞伎の始まりです。

村人たちは、旅の芸人が置いていった芸を、自分たちの手で続けました。天保・安政の頃が最も盛んで、明治に入ると名古屋方面からさらに専門的な技術が伝わり、各地区が競い合うように上演。他の町村からも招かれるほどの名声を得ます。

昭和46年(1971年)には「下條歌舞伎保存会」が結成され、小中学生による「こども歌舞伎教室」も生まれました。そして2020年、伝承300年を迎えています。

演目は「絵本太功記 尼ヶ崎の段」「一谷嫩軍記 熊谷陣屋の場」「菅原伝授手習鑑 寺子屋の段」といった、歌舞伎の王道。舞台に立つのは、農業を営む人、勤め人、そして子どもたち。80代で歌舞伎歴70年を超える人もいます。

戦後の貧しい時代、農作業を終えた夜に集落の皆が集まり、持ち寄った食べ物目当てに稽古場へ通った──そんな始まり方をした人もいると聞くと、この芸能が「文化財」である前に、村の夜の楽しみだったことがよくわかります。

「奇跡の村」と呼ばれた理由

時代は下って1990年代。人口およそ4,000人のこの村が、全国から注目されます。

1997年度から、村は低家賃の村営「若者定住促進住宅」の整備を始めました。ただし入居には条件がある。「子どもがいる、または結婚の予定がある」こと。そして「村行事や消防団に参加する」こと。住まいを与えるのではなく、村の一員になってもらう仕組みでした。

さらに「資材支給事業」。村道や水路の整備を、村が資材だけを支給し、工事は住民自身が汗を流して行う。行政コストは大幅に下がり、そのぶん住民同士の結束は強くなりました。

役場は係長制度を廃止し、職員数を類似自治体の半分近くまで絞りました。そうして生まれた余力を、子育て支援に回したのです。

結果、1998年から2002年の5年間平均で出生率が長野県トップを記録。その後も全国平均を上回る水準を保ち、「奇跡の村」と呼ばれるようになりました。近年は村も人口減少に直面していますが、この村が示した「金の使い道は選べる」という事実の重みは、今も変わりません。

最後に……

村営住宅と農村歌舞伎。まったく別の話に見えて、根っこは同じだと思うのです。

旅の太夫が残した芝居を、村人が自分たちで続けた。行政に任せきりにせず、村道を村人が自分たちでならした。どちらも「自分たちでやる」という一点でつながっています。

下條村の花道は、誰かが敷いてくれたものではありません。300年かけて、村人が自分たちの足で踏み固めてきた道なのです。

(余談ですが、この村は俳優・峰竜太さんの出身地としても知られています。)

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