「泰阜」と書いて「やすおか」。
この読みにくい村名は、中国の詩の一節「泰山丘阜(たいざんきゅうふ)」に由来すると伝わります。どっしりと安らかな山と丘。天竜川東岸の山あいに開けたこの村の姿を、そのまま言葉にしたような名前です。
長野県下伊那郡泰阜村(やすおかむら)。人口およそ1,500人。村域の86%が山林で、居住地の標高は天竜川河畔の320メートルから山麓の770メートルまで、その差450メートル。村の中で天気も気温も違う、そんな縦に長い村です。
けれどこの村が本当に面白いのは、地形ではなく「やってきたこと」のほうかもしれません。
合併しなかった150年
泰阜村は明治8年(1875年)に成立して以来、今日まで一度も合併していません。
「昭和の大合併」も「平成の大合併」も、南信州の村々を大きく揺さぶりました。その中で単独を選び続けるのは、決して楽な道ではありません。にもかかわらず、この小さな村は、合併ではなく「先んじること」で生き延びる道を選んできました。
その足跡を並べてみると、ちょっと驚かされます。
「全国初」「全国でも珍しい」が並ぶ村
昭和5年、小学校併設の美術館。 全国でも珍しい「小学校美術館」を設立しました。昭和5年といえば1930年。世界恐慌の余波が日本を襲っていた時代です。その年に、山あいの村の小学校に美術館をつくった。
昭和50年代後半から、在宅福祉。 施設に集めるのではなく、住み慣れた家で暮らし続けられるように支える。この取り組みで「福祉の村」として全国に知られるようになりました。
昭和61年、山村留学の受け入れ開始。 都会の子どもたちが村に住み、地元の学校に通いながら共同生活を送る。現在はNPO法人グリーンウッド自然体験教育センターが、毎年約20人の子どもたちと暮らしています。
平成16年、「ふるさと思いやり基金」。 村を応援したい人から寄付を募る仕組みです。この名前にピンと来なくても、いまの名前ならご存じでしょう――そう、「ふるさと納税」です。泰阜村の試みは、全国に広がった制度の先駆けとなりました。
令和元年、郵便局への行政支所業務の委託。 これは全国で初めての事例で、他の自治体からも注目されています。
人口1,500人の村が、これだけの「先駆け」を積み重ねてきた。合併を選ばなかったぶん、自分たちで考えるしかなかった――そう考えると、この一覧はずいぶん違って見えてきます。

絶壁に、ホームがある
そんな泰阜村には、鉄道ファンの間で全国的に知られた場所があります。
JR飯田線・田本駅(たもとえき)。
ホームの背後には、コンクリート製の巨大な擁壁がそびえ立っています。上のほうでは、擁壁から岩が突き出している。そして線路の下は、天竜川の渓谷です。駅舎はなく、ホーム上に待合所があるだけ。
何より驚くのは、この駅に車で行けないことです。道路から駅へ通じているのは、人ひとりがようやく通れるほどの山道のみ。逆に駅から車道へ出るには、その山道を延々と15分ほど登らなければなりません。
開業は昭和10年(1935年)11月15日、三信鉄道が温田-門島間を延伸したときのこと。当時は「田本停留場」でした。昭和18年に飯田線の一部として国有化され、駅に昇格しています。
かつては集落へ向かう人々が利用した駅でした。その集落が途絶えたあとも、駅だけが絶壁に残った。秘境駅ランキングでも常に上位に入り、臨時急行「飯田線秘境駅号」の停車駅にもなっています。ホームには「ゼッペキノート」と呼ばれる駅ノートが置かれ、訪れた人たちが言葉を残していきます。
最後に……
村には万古渓谷(まんごけいこく)という、手つかずの自然が残る場所もあります。岩をえぐる急流、無数の滝と淵。かつては山奥の僻地でしたが、50年ほど前に林道が開通し、車で行けるようになりました。
そしてこの村の食べ物。こんにゃく、豆腐、そして柚子を加工した「ゆべし」。素朴ですが、風土に磨かれた味です。
先駆けであること、そして絶壁にホームがあること。一見関係のないふたつですが、どちらも「この場所で暮らし続ける」という同じ意志から生まれているように思えてなりません。
泰阜村は、150年ものあいだ、自分たちの足で立ち続けている村なのです。