断層の谷に都があった│大鹿村(おおしかむら)という奇跡の場所

長野県下伊那郡大鹿村(おおしかむら)。

南アルプス(赤石山脈)と伊那山脈に挟まれた、標高の高い谷あいの村です。面積248.28平方キロメートルのうち97%が山林原野。平地はごくわずかで、集落は急な斜面に点在しています。人口は1,100人ほど。

日本列島を縦断する大断層「中央構造線」が、村のまんなかを貫いています。けれど、この村の本当の不思議は、そんな山奥にありながら「都」があったことなのです。

ふたつの村から、一文字ずつ

まず村の名前から。「大鹿」は、大河原村(おおかわらむら)と鹿塩村(かしおむら)から、それぞれ一文字ずつを取ったものです。

明治7年(1874年)に両村が合併して大鹿村と称し、明治15年にいったん分村。そして明治22年(1889年)、あらためて合併して現在に至ります。以来130年以上、大鹿村は合併を経験していません。

村の中心が二か所に分かれているのは、この成り立ちの名残です。役場は、小渋川と鹿塩川の合流地点である大河原地区落合に置かれています。

山の中に、海の水が湧く

「鹿塩」という地名が示すとおり、この村には塩水が湧きます。

海から遠く離れた奥山なのに、海水と同じくらい濃い塩水が地面から出てくる。不思議な話です。

明治時代、旧徳島藩士の黒部銑次郎という人物が、この塩水の元には岩塩があるはずだと考え、坑道を掘りました。結局、岩塩は見つかりませんでした。しかし彼は諦めず、湧き出る塩泉から製塩場を開き、さらに鉱泉浴場の営業を始めます。これが今日の鹿塩温泉の始まりです。

では、あの塩水はどこから来るのか。現在わかっているのは、西南日本の下に沈み込んでいるフィリピン海プレートが持ち込んだ水だということ。大鹿村の真下、地下およそ35キロにあるプレートの上面付近から水が放出され、中央構造線などの割れ目を通って地表まで上がってきているのです。

上がってくる途中でさまざまな成分を溶かし込み、最後に海水とよく似た組成になる。その過程はまだ完全には解明されていません。

山の中で海の水に浸かる。この村では、それが可能です。

三十年、この谷に南朝があった

そして、この村の最大の物語です。

南北朝時代。後醍醐天皇の第八皇子・宗良親王(むねよししんのう)は、興国4年(1343年)の冬、南朝の忠臣・香坂高宗に迎えられて大河原城に入りました。親王、34歳の年です。

以来30年あまり、親王はこの谷を拠点として過ごしました。

大河原城は、険しい地形をそのまま生かした天然の要害でした。南は眼下に小渋川の急流を望む断崖、東は渓谷、北と西は空堀。それでも高宗はなお不安に思い、さらに奥地の御所平に安住の地を定めたといいます。

正平7年(1352年)、親王42歳のとき、足利尊氏を鎌倉に討伐せよとの宣令が下り、征夷大将軍に任じられて武蔵野合戦などに出陣しています。

しかしこの人は、武将である以上に歌人でした。母は藤原定家の子孫にあたる藤原為子。20歳で比叡山延暦寺の天台座主となった経歴を持ち、南北朝第一の歌人と称されます。歌集に『李花集』、選集に『新葉和歌集』。

 君がため世のため何か惜しからむ 捨てて甲斐ある命なりせば

小手指原の激戦を前に詠まれたこの一首は、今も広く知られています。

京の都で歌を学んだ皇子が、南アルプスの谷で三十年を送った。そう考えると、この村の風景がまるで違って見えてきます。

平安から続く、都との細い糸

親王の話は突然の出来事ではありません。

大鹿村は平安時代から荘園として開発され、「大河原鹿塩」という所領の名で『吾妻鏡』にも登場します。村内の福徳寺薬師堂は長野県最古の木造建築として重要文化財に指定されており、この地の歴史の古さを物語っています。

隔絶された山間地に見えて、古道を通じて都の文化が流れ込んでいた。その古道が、秋葉街道です。

遠州の秋葉山(静岡県浜松市春野町)と信州の諏訪を結ぶ、総延長220キロあまりの道。江戸時代、秋葉神社への参詣者が多く通ったことからこの名で呼ばれますが、太平洋と内陸を一直線に結ぶこの道は、縄文時代からすでに「塩の道」として使われていたと考えられています。

そしてこの街道は、中央構造線の谷筋に沿って走っています。断層がつくった一直線の谷が、そのまま人の通り道になった――現在の国道152号も、ほぼ同じ道すじをたどります。

三百年、この村は芝居を続けてきた

もうひとつ、大鹿村の名を全国に知らしめているものがあります。

「大鹿歌舞伎」。300年以上にわたって村人が演じ継いできた地芝居で、国の重要無形民俗文化財です。

文書に初めて現れるのは明和4年(1767年)、大河原村の名主・前島家の日記帳。江戸時代、素人が歌舞伎を上演することは禁じられていましたが、この村では神社の境内に舞台を設け、奉納芝居という形で続けられました。隔絶された立地が、むしろ幸いしたのです。

明治年間までに、村内には13か所もの舞台が建てられました。険しい山村でこれだけの舞台をつくったという事実が、村人の芝居熱を何より雄弁に語っています。現在も4つの舞台が使われ、春は5月3日に大河原の大磧神社舞台で、秋は10月第3日曜日に鹿塩の市場神社舞台で、定期公演が行われます。

境内にゴザや座布団を敷いて観る、昔ながらのスタイル。芝居が山場を迎えると、客席から「いいぞ」「待ってました」の掛け声とともに、おひねりが舞台へ投げ込まれます。

上演がなかったのは、終戦の年などごくわずか。この芝居は娯楽であると同時に、村人の心の拠りどころであり、祈りに近いものでした。

最後に……

断層が谷をつくり、谷が道になり、道が都の文化を運んできた。塩水が湧き、皇子が三十年を過ごし、村人は三百年芝居を続けてきた。

大鹿村の話は、どこから話し始めても別の話につながっていきます。そのどれもが、一本の記事に収まるような小さな話ではありません。

中央構造線のこと、大鹿歌舞伎のこと、山の塩のこと。どれも、あらためてじっくりお伝えしたいと思っています。

まずは一度、この谷を訪ねてみてください。南アルプスの主峰・赤石岳を仰ぎながら、断層の谷に立ってみる。それだけで、この村が「日本で最も美しい村」連合に名を連ねている理由が、体でわかるはずです。

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