松本城の天守は、もとは飯田城のものだった?|ある移築説を、年輪でたどる

「現在の松本城の天守は、飯田城の天守を移したものだという説もある」

城を紹介するサイトで、こんな一文を目にすることがあります。国宝の天守が、もとは飯田にあった。本当なら、飯田城の歴史が大きく書き換わる話です。

結論から書くと、この説は成り立ちにくいと考えられます。決め手になったのは、2025年に発表された、松本城天守の柱の年輪調査でした。それでも、この説がなぜ生まれたのかを追っていくと、飯田城と松本城の思いがけない近さが見えてきます。

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説の筋書き

この説の背景には、一人の大名がいます。小笠原秀政です。

秀政は慶長6年(1601年)、下総古河から5万石で飯田に入りました。そして慶長18年(1613年)、8万石に加増されて松本へ移ります。飯田城主から松本城主へ。飯田から松本へ移った城主がいる以上、天守もいっしょに運ばれたのではないか。説の筋書きは、おおむねこの連想の上に立っています。

城の建物を移すこと自体は、珍しい話ではありません。飯田城でも、明治に城が取り壊されたあと、門のいくつかが民家や寺へ移され、いまも残っています。移築という発想そのものには、十分な現実味があります。

松本城天守は、いつ建ったのか

では、松本城の天守はいつ建てられたのでしょうか。

松本城の改修に手をつけたのは、天正18年(1590年)に入った石川数正です。数正が文禄2年(1593年)に亡くなると、子の康長が事業を引き継ぎ、天守を築きました。文化庁の文化遺産オンラインは、天守の造営を文禄3年(1594年)から慶長4年(1599年)にかけてと推定しています。

ただし、天守の建築年代については、これまで研究者のあいだで説が分かれていました。文禄3年説、慶長2年(1597年)説、慶長5〜6年説などがあり、なかには、慶長20年(1615年)ごろに小笠原秀政が建てたとする説も紹介されてきました。

この議論に区切りをつけたのが、松本市が2025年11月に発表した調査です。

年輪が示した「1596年」

調査は、世界遺産登録をめざす基礎研究の一環として、令和4〜6年度に行われました。年輪年代学の光谷拓実氏(奈良文化財研究所名誉研究員)と、建築史の麓和善氏(名古屋工業大学名誉教授)が、天守や櫓の部材を調べています。

木の年輪は、一年にひとつずつ刻まれます。残された年輪の幅のパターンを、年代のわかっている基準と照らし合わせると、その木がいつ伐られたかを割り出すことができます。

調べた結果、大天守のヒノキの柱4本が、いずれも1596年に伐採されたものとわかりました。木を伐ってから乾かす間をおかずに建てたと考えられることから、天守の建設は慶長2年(1597年)ごろと結論づけられています。土台の石垣は、文禄3年ごろから2年ほどかけて築かれたとみられます。

あわせて、乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓も、天守と同じ時期の建設と推定されました。とくに辰巳附櫓は、これまで寛永年間の増築とされてきたものです。のちの増築とされたのは、月見櫓だけでした。

時系列で照らしてみる

ここで、年表を並べてみます。

  • 1590年 石川数正、松本に入る
  • 1596年 松本城天守の柱となるヒノキが伐られる
  • 1597年ごろ 松本城天守が建つ
  • 1601年 小笠原秀政、飯田に入る
  • 1613年 小笠原秀政、飯田から松本へ移る
  • 1615年 小笠原秀政、大坂夏の陣で戦死する

松本城の天守が建ったとき、秀政はまだ飯田に来てもいません。秀政が松本へ移ったのは、天守が建ってから16年もあとのことです。そして秀政が松本城主だったのは、大坂の陣で亡くなるまでのおよそ2年でした。

秀政が飯田から天守を運んだと考える余地は、時系列の上ではほとんどありません。

もう一つ付け加えると、今回あたった飯田市の解説や、江戸時代初期の飯田城を描いた「信濃国飯田城絵図」の解説には、飯田城の天守についての記述が見当たりませんでした。移築以前に、運ぶべき天守が飯田城にあったのかどうか、そこから確かではないのです。

では、なぜこの説が生まれたのか

それでも、まったく根拠のない思いつきとも言い切れません。説の出どころをはっきり示す記録は、今回の調べでは見つかりませんでしたが、手がかりになりそうな事実はいくつかあります。

ひとつは、先に触れた「天守は小笠原秀政が建てた」という説です。秀政が松本の天守を建てたという話と、秀政が飯田から来たという事実が重なれば、「飯田から来た秀政が、飯田の天守を持ってきた」という筋書きまでは、あと一歩です。

もうひとつは、小笠原家と二つの土地との結びつきです。小笠原氏は信濃守護の家柄で、伊那谷では、いまの飯田市内にある松尾城が、室町時代に一族の松尾小笠原氏の本拠地でした。一方、秀政自身は深志(松本)の小笠原家の流れをくむ人物で、松本へ移ったことは、先祖ゆかりの地へ戻ることでもありました。飯田にも松本にも根を持つ小笠原家の来歴が、二つの城を一本の線で結びつけて語らせたのかもしれません。

いずれも推測の域を出ませんが、この説は、ありもしない話を一から作ったものというより、確かな事実どうしがつなぎ合わされるなかで生まれた話に見えます。

親子ではなく、同じ時代に生まれた城

年表をもう一度見ると、移築説とは別の、二つの城の関係が浮かんできます。

天正18年(1590年)、家康が関東へ移されたあと、松本には石川数正が、飯田には毛利秀頼が入りました。同じ年のことです。そして二人と、その跡を継いだ石川康長・京極高知のもとで、二つの城はそろって、石垣と瓦を備えた近世の城へと造り替えられていきます。

松本で天守の柱となるヒノキが伐られた1596年は、飯田では、京極高知が城下の町屋を碁盤の目のように割り直し、城下町全体を惣堀で囲んだ年でもありました。飯田城の二の丸の正門だった八間門も、1階部分は文禄年間(1592〜1596年)の建築と推定されています。

松本城の天守は、飯田城から運ばれたものではありませんでした。けれど二つの城は、同じ年に新しい城主を迎え、同じ十年ほどのあいだに姿を変えています。松本の天守と同じ時代に建てられた門は、いまも飯田の松尾久井に残っています。

[→ 記事⑪「天守を持たなかった城」(近日公開)]


参考資料

【ウェブサイト】

【文献】

  • 『飯田城ガイドブック ―飯田城と城下町を探ろう―』飯田市美術博物館、2005年

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