信玄の六人の娘たちの人生模様(武田滅亡後の記事・続編)

前記事「武田滅亡後、信玄の子どもたちはどう生きたか?知られざる一族のサバイバル物語」の通り、武田滅亡と共に信玄の息子たちは次々と散っていきました。では、娘たちはどうだったのでしょうか。

政略結婚の駒として各地へ嫁いだ彼女たちは、兄弟たちとは異なる形で激動の生涯を生きたのです。ただ、信玄の娘の人数は諸説あり、五人とも六人ともいわれています。その生まれ順や名前についても謎が多く、今なお歴史学者や郷土史家の間でも統一されていません。解明されない謎も、歴史のロマンということで読み進めてください。

同盟の証として嫁ぎ、裏切りの狭間で翻弄された姫たち

長女の黄梅院は、三国同盟の証として13歳で北条氏政へ嫁ぎました。夫婦仲は良く子宝にも恵まれましたが、父・信玄の駿河侵攻により同盟は破綻。夫や子と引き裂かれ甲斐へ送還された彼女は、その翌年27歳で亡くなります。

次女の見性院は武田重臣・穴山信君(梅雪)に嫁ぎましたが、夫は武田を裏切り織田・徳川方へ。夫は本能寺の変の混乱で横死、一人息子も夭折します。しかし彼女は徳川家康の庇護を受け、化粧料として領地を与えられるなど手厚く遇され、72歳まで生きました。

三女の真竜院(真理姫)が嫁いだ木曾義昌もまた、織田信長の調略に応じて武田を裏切ります。この裏切りが武田崩壊の引き金となりました。彼女は夫と共に各地を転々としながら生き延びたとも、夫と離別して木曽山中に隠遁したとも言われています。いずれにしても兄弟姉妹の中では最も長寿だったようです。

五女(四女、あるいは六女という説あり)の菊姫は、宿敵・上杉謙信亡き後の甲越同盟により上杉景勝に嫁ぎました。聡明で優しい人柄だったといわれ、正室として大切にされましたが、子には恵まれず32歳で生涯を閉じました。

後世に語られる悲恋のヒロイン、四女の松姫

四女(生まれ順については諸説あり)の松姫は、わずか7歳で織田信忠と婚約しました。手紙や贈り物を通して心を通わせ互いに想い合う二人でしたが、武田が反織田に転じたため婚約は破談になってしまったのです。

武田滅亡時、信忠は改めて松姫を迎えようとしましたが、直後に本能寺の変で非業の死を遂げてしまいます。松姫は元婚約者の死を深く悲しみ、生涯独身を貫いて出家。信松尼として、八王子で多くの人々から慕われました。

戦国の荒波の中を生き抜いた女性たち

政略の駒として翻弄されながらも、それぞれの場所で懸命に生きた姫たち。その生き様は、戦国という時代を女性の視点から映し出した、もうひとつの歴史の側面と言えるでしょう。